協働インタビューの試み

定性調査でバイアスを考慮する必要はない、との持論を持っているが、なかなか理解が得られない。定性とはいえ、調査(リサーチ)である限りは調査主体は調査対象を「自然状態」において観察、質問すべきであるとの原則は認める。この考え方は、今の若者には想像すらできないだろうが、「対象者が生活している現場に出かけて質問してくる」いわゆる「訪問面接調査」という方法論に行き着いた。(新しい手法と思われるホームビジットは実は古臭い方法論なのである)生活の現場で生活(消費)について質問するのだから自然状態での反応(回答)が得られると考えた。

ところが、状況はインターネットの普及で大きく変化した。現場に出かける手間ヒマ、費用を考えれば、そこから離れてもデータは収集できるし、何よりもスピードと費用の安さが革命的だったので、原理原則は脇に追いやってネットリサーチに雪崩れた。繰り返しスピーディにリサーチができるのでリサーチが盛んになった利点の一方で、精度は問題にされることもなくなった。粗製とは言わないが乱造されるリサーチが価値を下げたのではないかと疑っている。結果、ネットリサーチ各社が価格競争に終始し、自らの首を締める状況が続いている。これでは若いリサーチャーは育ちようがない。

一方の定性調査にはこのような革命は起きていない。というより、定性調査は手法としてすでに革命を体験していたといえる。インタビュー調査は調査主体が現場に出かけることはなく(一部の1on1ではあるが)対象にとってはアウェイな環境に呼び出して質問するという形式をとった。呼び集める対象者は有意な条件をつけられので代表性とか母集団という考えは入り込めない。バイアスをかけまくった結果FGIが成立している。

バイアスをかけてしまうのなら、徹底的にバイアスをかけたインタビューにしてみてはどうだろうか。バイアスの最高地点は対象者の立場を捨てて調査者側の人になってもらってインタビューを受けてもらうことである。調査主体と調査される客体としての対象者という区別をゼロとは言えないがなくしてしまおう。これを協働インタビューとして試みていきたい。時々、現れる「消費者(女子高生)と一緒に商品開発」のような協働(共創)とは違う、定性調査の方法論として確立したい。

とりあえず、10月18日の「第6回アウラ・コキリコセミナー」でトライする。

 

ディベートインタビューの試み

第5回アウラコキリコセミナーでディベートインタビューを試験的におこなった。はっきりした定義はないが、FGIのある場面で、ディベート形式の討論を対象者にやってもらうことをディベートインタビューとした。その目的は、単なるユーザーという立場を越えて当該ブランドの良さを語ってもらうことで「新しい気づき」や「自分の嗜好の論理的な理解・納得」が得られるのでは、ということである。ディベートだから反対派(アンチ)の立場に立っての立論を無理にでも立てるので、一層、理解・納得が深まると想定できる。

実際のディベートインタビューでは、対象者にディベートのルールを理解してもらうことが難しかった。日本人はディベート慣れしていないこともあって、論破や勝ちにこだわって反論やそれに対する新たな立論が感情的になってしまう。あるいは、最初の立論そのものが難しいなど、いくつか問題点はあったが、リクルーティング段階で「ディベートやってもらいます」との情報を与え、ルールを理解してきてもらえばスムースに行きそうである。

ディベートは一種のゲームであるから、ゲーミフィケーションの視点で再考してみたい。(そういえば、ゲーミフィケーションは今や死語?)

カスタマージャーニーからユーザージャーニーへ

カスタマージャーニー(マップ)を描く目的は、

①隠れた(意識していない)タッチポイントの発見

②タッチポイントごとの接触情報と接触媒体の特定

③タッチポイントでの態度変容

④購入に至る意欲の高まりの軌跡

だと思う。

AIDMAが1本の直線で描かれる消費行動プロセスに対して複線的に描く。

何となくニューラルネットワークに似ている(全然違う!)気がする。

商品・サービスの購入プロセス分析、ブランディング分析に使える。

カスタマージャーニーからユーザージャーニーへの発展を考えている。

購入から使用(消費)までにタイムラグがあるモノは使う場面を刺激することで

次の購入が促され、ジャンル全体の消費量(売上)が伸びる。

購入者(カスタマー)が使用者(ユーザー)になるプロセスのジャーニーマップを

描くことはマーケティング上有効であろう。

家電製品やAV機器などには不向きな分析だが、リピート購入が重要な最寄り品に

有効であろう。

方法論は、カスタマージャーニーと同じでよいのか。

タッチポイントの抽出は使用者の無意識の領域に踏み込む必要があるかも知れない。

ニューロマーケティングはとっくに終わっている

第30弾は「自由意志錯覚」これを初めて知った時は結構なショックを受けた。大げさに言うとアイデンティティの危機。リベットの実験で有名だが、ヒトが何かをしようと思う前から脳は準備電位といって活動を始めている。意志が先にあって、その意志に従って必要な脳活動が始まると考えたいが、脳活動が先でその後に「しよう」という意志が現れる。「自由意志は幻想」にすぎない。何か腑に落ちないが、池谷先生は「無からは何も生まれない」とし、「しよう」という意志が生まれる前をたどっていけば、何らかの(脳)活動が必要になる、のだから当然のことであると解説している。そして「ヒトという生き物は、自分のことを自分では決して知りえない作りになっているようです」と結論している。『ココロの盲点』の掉尾をかざる哲学的なご託宣である。

MRの現場でこの自由意志問題が関わるようなことはまずない。無理やりつなげれば、ニューロマーケティングと言われる分野で、コトバや行動で「回答」させるの従来の方法ではなく、脳活動を測定することでバイアスのないリサーチができるとのアプローチである。消費者のブランド決定時の意志のありようや広告や商品の評価をコトバを介することなく直接、脳活動の測定で行なおうとの考え方である。この考え方は原理的に不可能と考えてよさそうでさる。

カラダはウソがつけない

第29弾「自己知覚」 ある感情があって、それに見合った表情や姿勢が表現形として出てくる。楽しい時は笑顔が、ガッカリした時は肩を落とした姿勢が、ということ。ところが、逆の回路があって、表情や姿勢からある感情が湧き上がることがある。無理に笑顔を作っても楽しい感情が湧いてくるし、ガッツポーズをとることで気分が高揚してくる。我々の感情や情緒は「ココロではなくカラダ由来」だったりする。楽しいから笑うし、笑うことから楽しい気持ちが湧いてくる。この感情を導き出す力は表情より姿勢(体)の方が強い。能が面(おもて)は無表情にして、舞で表現するのも、この顔(表情)よりカラダの自己知覚の方が強いことを知っていたかのかも知れない。顔はウソをつけるがカラダはウソをつけない。

MRの現場、FGIの現場ではボディランゲージが大切と云われることがあるが、2時間椅子に固定されていては言うほどのボディランゲージは観察できない。ワークショップでアイスブレイクにコトバのやりとりだけよりもカラダを動かさせた方が、アイスブレイクできたか、凍ったままののかの判断は確かにつきやすい。表情は崩れていてもカラダが固まったままでは緊張が解けたとはいえない。我々が提案しているインタビューの途中でカラダの動きを強制的にいれる「アクティブインタビュー」もこの知見に従っていそうだ。

ココロの開放はまず、カラダの開放から。

人格同一性効果とレッテル貼り

第28弾「人格同一性効果」このネーミングもよくわからない。他人に何かを禁止・お願いする時、「ウソはつかないでね」というより「ウソつきにならないでね」と言った方が効果的ということ。行為よりも人格を云々されることがココロに響くということで、これは聞いただけで納得できる内容だ。子どもを叱るときも「ゲームはもう止めなさい」より「ゲームばかりしてるとおバカさんになるよ」の方がいいのかも知れないが、「やめろと言ってんだろ、バカ!」になってしまう。まあ、親子では人格同一性効果は弱いのだろう。

MRの現場では、対象者(消費者)は行動で判断されたい、クライアントは人格同一性を見い出したい傾向がある。インタビューで、いつも新しい(買ったことがない)ものを買う、買いたいとの発言に「新しもの好きなんですね」と返したら「いえ、そんなことありません」と反発されたので、次からは「好奇心が強いんですね」と返すようにしたら反発はなくなった。クライアントとのデブリーフィングでは「典型的なブランドスイッチャーでしたね」と人格化した方が同意を得やすい。最もイノベーター、フォロワー、スイッチャーなどは人格寄りも行動特性に近いが。インタビューでは、人格表現でたずねるか、行動でたずねるかで結果が大きく違うことがある。

別れ話のとき「嫌いにならないで」よりも「他人同士戻りたくない」が効果的なのかはわからない。いや、他人同士と言うのは人格とは関係ないか。ということは別れは止められない。

ある行動を攻撃するよりも人格攻撃が苛烈になるのは当然か。安倍政治を攻撃するより、安倍はヒットラー、独裁者と攻撃するのも人格同一性効果?

曖昧性を避けるか、好むか。

第27弾は「曖昧性効果」ちょっとわかりづらい。と言うより当然の反応の気がする。確率を明言してくれていればそちらを選ぶし、わざわざ確率を再計算するほど我々はアタマがよくないし、時間も無駄である。モンティ・ホール問題も人に説明できるほどの理解に至っていない自分としては確率、期待値は計算より宣言された数値を信頼するよりない。今回の曖昧性効果は、曖昧なものを避ける傾向を脳は持っているということだが、コトバだけからは曖昧な方が有利に働く(選択されやすい)と誤解してしまう。

大阪と東京で同じテーマでインタビューした時に単価の話になって、東京の主婦は全体価格か行っても本数単価の比較で判断していたのに大阪の主婦の中には本数単価を越えてg(グラム)単価まで比較する人がいて驚いた経験がある。日常生活でここまで「計算」するには相当の意識(少しでも安いものを買いたい、高く買うのは愚か)と計算能力(全体価格・本数単価・1本あたりのグラム数)が必要である。グラム単価は曖昧のまま、明確に表示されている全体価格で比較するのが当然であろう。マーケターは当該製品の隅々まで分析するのでグラム単価まで気にするが、消費者はPOPに表示された価格の「印象」でブランド選択している。詐欺とまではいわないこれらのゴマカシはマーケティング戦術として認められるのではないだろうか。