「脳死」と「脳始」

脳死」と「脳始」ダジャレみたいだが結構深刻な問題。
福岡伸一『世界は分けてもわからない』のP144あたり。(たぶん、「脳始」は福岡さんが言い出した)
脳死は植物人間化(対策)と臓器移植に深く関係している。
呼吸停止、心臓停止、瞳孔散大の3条件が死の判定基準であったが、この条件が揃うまで待つと「新鮮な臓器」は取り出せないし、管につながれて意識もないまま何年も「生かされる」悲劇が減らない。
そこで「脳」が活動停止(これはどう測定するのだろう)した段階でその人は「死んだ」とされるようになった。
でも庶民の臨床の世界では旧来の3条件で判定される。

死の反対側、誕生については死のようなはっきりした基準はない。出産その時点を誕生とするのは庶民の臨床の世界だが、脳死との対で考えれば「意識が芽生えた瞬間」=脳が脳として活動を始めた時、が妥当ではないかと福岡さんは言う。
胎児の神経細胞が形成され始めるのが受精後3週くらいらしい。
意識の芽生えは難しいが、受精後3〜4週で脳細胞の活動は活発化するようである。
すると脳で考える「誕生」、つまり「脳始」は受精後4週間か5週間ということになる。

脳死と脳始、時間軸で前へ前へと引き倒される死と生。
我々は誕生の瞬間の記憶はない(三島由紀夫は金盥の淵に当たる朝日を見たと言っていたらしい)し、死の瞬間から「記憶」は無になるのでこれの記憶もない。
脳死判定は臓器移植という現実的なベネフィットをもたらしているが脳始にはそういった可能性はなさそう。

ただ、「脳死判定による臓器移植」には「ハラ(臓器)の底では納得できない」感覚が自分にはある。(福岡さんもそうなのかもしれないと。。。)