体のどの部分が好きですか?

芸能人へのインタビューなどで時々あらわれる質問に「○○さんは自分の顔でどの部分が一番好きですか?」というのがある。
カオの魅力を部分に分解できるかもしれないが、分解した部分を統合しても元の「カオの魅力」は再現されない。カオはコラージュやモンタージュできてもカオの「魅力」はコラージュでもモンタージュでもない。
カオの魅力とは、存在の全体そのもので「分析」は拒否されるが、「物語る」ことは受容される。
ここから自然科学と人文学の違いや定量調査と定性調査の違いを導き出してもよいが、最近読んだ本『脳(ブレイン)バンク』光文社新書のゆるい衝撃について。

内容は読んでもらえばわかるが、この本の衝撃は、しないとは思うが「自分も脳バンク」に登録しようか?と感じさせたことである。
・確たる信念があるわけでもなく献血はしたことない。(輸血は受けたことがある)
・臓器提供のドナー登録ははっきりと拒否したい。
・臓器移植という医療行為そのものに賛成しかねる。
と漠然と考えてきたし、悲惨な疾病から臓器移植で回復した、というようないわゆる闘病物語を読んでもこの考えは変わらなかった。
この『脳バンク』のエピソードは感動を呼ぶより冷静な記述の方が圧倒的に多いのに脳バンクに登録?という強い情動の変化をもたらした。

精神疾患にはそれぞれに特異的な脳の部分と機能(伝達物質)の抑制・亢進という原因と発症機序があるというクレペリン的な疾病基準を適応できるようになったのも(人間の)脳の解剖学的研究のたまものらしい。
そしてこの脳のサンプルが不足しているとのこと。
それならば!という気持ちになったのである。

能力という点では他の部分と同様に優れているとはいえない自分の脳が考えるより、サンプルとなった方が得策かもしれない。
サンプルとして解体される「脳が見る夢」、これこそが物語ではある。