ラッピングマーケティングⅡ

トヨタソフトバンクの提携発表はショッキングであった。解説は、自動運転技術が完成したときの自動車メーカーの立ち位置、自動運転を完成させるための情報技術の獲得などとトヨタの事情寄りのものが多かった印象である。一方、この提携はソフトバンクにとっては配車サービス事業の日本での立ち上げに限定されるのではないか、ソフトバンクに自動運転技術の蓄積はあるのだろうか、画期的な電池技術を持っているのかが自分の疑問である。自動運転のレベル5が完成して配車サービスと連動し、その時のクルマが電動モーター(エンジン)である状況が生まれたときの自動車産業がどうなるかは全く想像できない。インターネット初期(SNS初期)に全部がつながることで完全な民主主義が成立するとの夢と「SNSは馬鹿ばかり、炎上上等」の現状を考えると、移動・輸送の完璧効率化社会ではなく、多分、新しい地獄が待っているのかも知れない。

ここで、ラッピングマーケティングに飛躍する。

今回の提携は再セグメンテーション、リポジショニングで語られるのだろう。自動車産業というセグメントで生きていられなくなりそうな事態が予想され、生態系の見直しから、捕食者・非捕食者関係のポジショニングもやり直すというマーケティング作業である。この時、セグメンテーションやポジショニングのやり直しと捉えるよりラッピングと考えた方がしっくり来るのではなかろうか。自動車産業の構成要素をひとつつみにラピングしていたがそこにITや電池産業も入れてみて全体の包み込み状況を確認する、程度のことではあるが、ラッピングの方が気軽に簡単にできるし、ラッピング全体を見通すこともできる。

このラッピング用具は風呂敷をイメージしたほうが良い。どんな形のものも大小が大きく異なるものも一緒に包込める。1枚の風呂敷に入り切らなければ、それは詰め込みすぎでラッピングの基本からズレているので有効な戦略は産まない。風呂敷包みが小さすぎれば、ラッピングもれの要素があるという判断にもなる。MBA的厳密なセグメンテーション、ポジショニングよりも冗長性のあるラッピング概念は今回の提携のような場面では有効ではなかろうか。

ポスト平成のマーケティングはこの冗長性の処理が重要になってくる。

ラッピングマーケティング

前々回の記事にあるように最近、パッケージングについて考えている。パッケージングは重要なマーケティング要素である。典型は一般名称であり、湧き水、水道水とほぼ無料で手に入る水をネーミングし、きれいにデザインし、個別にパッケージングすることでブランド化できた例である。中身は悪く(毒で)なければよい、名前とキャッチコピー、インパクトのある表面デザイン、大量の広告投下でブランディングが完了した。

ところが、それが、ネット通販オンリーの時代が来ればほとんどの商品のパッケージングは不要になる。(だろう)醤油はもちろん、お菓子、洗剤などの消費財は、容器は必要だがパッケージはいらなくなる。趣味性、嗜好性の強い商品、パッケージング価値が残るがその数は少ないと予想する。これを前回は「量り売り」の復活と考えたが、もっと先進的にパッケージングの新しい価値が始まると考えてみたい。

そのひとつの仮説として、ラッピングマーケティングを考える。パッケージングとラッピングの違いをいくつかあげる。コトバ遊び的には「パッケージをラッピングできるが、ラッピングされたものをパッケージにすることはない」森永ミルクキャラメルはひとつひとつラップ(包装)されたものを外箱でパッケージングしているといえるが、ここではラッピングと個包装は別概念と考える。パッケージは規格的だが、ラッピングは自由で個性的。パッケージングされた商品は陳列しやすいがラッピングは陳列向きではない。パッケージングは生産部門で行われるが、ラッピングは流通段階で行われる。パッケージングは中身の保護・保存機能が高いがラッピングは弱い。

ラッピングマーケティングはネットとの親和性が高い。ブランディングはサイト上で自由に行い、流通過程、使用場面ではネーミングとの連動性だけあればよい。マーケティング」の主役、主戦場はWeb上になる。

インスタは無文字文化をめざす

先日、インタビューの対象として会話した女性から衝撃的な発言があった。「教科書以外の本を読んだことはほとんどない。雑誌なんて買ったことがない。自分の記録が載る陸上の雑誌は買うが、これも読むことはない」このあたりは、そうだろうな、と納得していたのだが「SNSはほぼインスタだけ、写真を次々に見ていくのは楽しいし、その中から買うものを見つけることもある。でもインスタのキャプションは読まない。写真を見ればわかるが、それに添えられた文章を読むとわかっていたこともわからなくなる」それに対して法学部の4年生という子も「試験の時以外は六法全書スマホで見るのですコロールして全文を読むことは少ないかも知れない」と同調した。

なかなかうまく理解出来ない。紙に印刷した文章、新聞雑誌、単行本を読まない、買わない人が若者中心に増えていることは実感できていたが、文章が理解を妨げる、理解を混乱させると聞いて、しかも奇をてらっている様子もないので、確かに文章を読むのが苦手というか文章を読む訓練をうけて来なかったことは想定できる。会話は支障なく複雑な会話もできるので脳に問題があるとも思えない。

そこで、文章で対象を理解することと絵(写真)で対象を理解することの差は何かを考えることになった。キャパの「崩れ落ちる兵士」は有名である。1枚の写真とキャプション(タイトル)だけで反ファシズム反戦の象徴(意味)たり得たのである。ただこれは写真だけでは達成されず、それを解釈するジャーナリズムのおしゃべりが必要だった。いまWikiをみてみたら、この写真がキャパの撮影ではなく、戦闘シーンでもない(だから、この兵士はその時死んではいない)という文章がえんえんと続いていた。文章を読むと意味がわからなくなる好例だが、彼女が言った「文章をよむとわからなくなる」とは違うだろう。もし、キャパの時代にインスタがあったと、逆に今の時代にキャパがインスタをやっていたとして、この写真の提示のされ方は、多分、その現場で撮影された写真多数を場所と日時の情報(コトバ)だけでアップしたはずである。それを見た彼女が何かを感じ、理解して、写真の意味やメッセージを考えるだろうか。おそらくはそうならず、キャパが描いたかも知れない説明文章を読んだとしても意味やメッセージは伝わらないということなのである。

インスタは認知の作用機序を変更してしまい、文章はもとよりコトバも無効にしてしまうのだろうか。コトバがないと認知も成立しないのでそれはないとして、文字・文章を無効化する力を秘めているかも知れない。インスタは無文字文化をめざす。

「量り売り」とパッケージング価値

パッケージング商品とノンパッケージング商品がある。昔はノンパッケージング商品は「計り売り(量り売り)」と言われたが、現在の音楽ソフトの売り方(買い方)も確かに「量り売り」の印象はある。ネットからDLできる商品はパッケージング不要であるが、パッケージングされてない商品は従来のマーケティングの考え方では把握しきれずこぼれる部分が出てくるのではと考えている。

パッケージの構成要素の中でネーミングは最重要でネーミングされずパッケージングされている商品はほとんどない。ネーミングはパッケージ表面に表示され、広告宣伝されて消費者に認知される。認知がない限りは売れることはない。現代の量り売り商品は広告宣伝(口コミ、インフルエンス)だけでネーミングを認知させ購入に結び付けなくてはいけない。店頭(サイト上)でもパッケージを示すことはなくネーミングとキャッチコピーと宣伝画像だけでクリックを促す。このサイト上の告知コンテンツがパッケージと言えば言えるが、当然、「さわる」ことはできない。パッケージング価値の中でこの「さわれる」ことは重要だと思うが、その点はまた考えたい。

このWeb上だけで告知・販売が完結する「量り売り」商品のパッケージングのやり方を考える、提案することは新たなマーケティング課題になるのではないかと愚行している。パッケージング価値をトータルで考え直してみたい。

暗黙知のインタビュー

M・ポランニーの「暗黙知の次元」を読んだのは30年位前だから当てにならない記憶だが、ネジを回すドライバー(ねじ回し)を持つ手(指先)の感触は、ドライバーを通ってドライバーとネジとの接点に至る。更にネジ山を通ってネジの先端に届く。これが暗黙知の次元であり、ここに至るには、初心者はもちろん無理で、ネジを回すベテラン、プロ、職人にならないと不可能である。ということをポランニーが言っていたと思う。ここからは、暗黙知は、体感であり、先端の感覚器官は触覚にということである。

地球の生命は、深海の熱水噴出口付近の酸素がない環境で誕生したとの説がある。それらの細菌はもちろん五感(感覚器官)はない(はず)。進化の過程で嗅覚、味覚が発展し、聴覚も発達して、最終的に「眼の誕生」で最高の感覚器、視覚が生まれたのであろう。豊かに降り注ぐ太陽光を利用した視覚、地球を覆う大気の中から危険情報を察知する嗅覚、食べて、飲んで良いものと毒とを識別する味覚、捕食者と獲物の気配を感じる聴覚と進化圧に適応させて感覚器官が発達してきた。この進化・発展のプロセスで最初に進化したのはおそらく触覚であろう。細胞膜と外界が触れ合うのが最初の触覚か、次に細胞膜と細胞膜が触れ合う触覚から多細胞生物ができていった。このように生命にとった最も原始的な母なる感覚は触覚ではないかと思う。(エビデンスなし)感覚器官の中ではもちろん視覚が王者であるが、触覚、「さわる」という感覚は他の4感覚の中にも潜んでいると考える。もっとも5感覚は相互に浸透的ではあると思う。「眼でさわる」もあるし「指先で見る」もあるので。

先日、池谷先生がこんなツイートをしていた。

<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">【身体の拡張】棒で物体に触れるとき、棒が手の延長として一体化したかのように、指先の感覚神経が反応し、精度よく接触位置を感知できるそうです。今朝の『ネイチャー』誌より→ <a href="https://t.co/xViWc1sYqj">https://t.co/xViWc1sYqj(ネズミがヒゲを、クモが巣を使って、物体を感知するときの神経反応に類似しているそうです)</p>&mdash; 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) <a href="https://twitter.com/yuji_ikegaya/status/1040248880632221701?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年9月13日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
 

 これは暗黙知そのものではないかと思い、その時、インタビューの分析をしていたのだが、まさに暗黙知的な体験の気づきがあった。我々のインタビューは観察(視線)もあるがほとんどはコトバ(聴覚)のやり取りで行われる。時々だが、対象者の発言(ことば)が触覚的な感覚を呼び起こすことがある。まさに対象者のことばに「さわれる」感覚である。このときはあるコトバの意味が論理的でもなく、文学的でもなく広がり、つながって行って、「意味のネットワーク」みたいなものに「さわれる」のである。この感覚(意味のネットワーク)を言語化しないと分析にならないのだが、多くの場合、やがて消えてしまう。

このインタビューにおける暗黙知の獲得はノウハウもなくマニュアル化もできない。ただ、長い体験の中で獲得しやすい体質になることはできる。コトバを聞くことで「意味にさわる」触覚の訓練である。インタビューを「質問と回答」の連続と考えている限り、暗黙知は降りてこない。

絵本とインスタグラム

あるインタビューで20歳の女性が、「ネットを使う時、文章や文字は読まない」と宣言した。「楽天やアマゾンで買い物する時、リコメンドや口コミは見ないのか」とプローブすると「簡単なコメントや文字、価格などの数値は見るが、文章になったらみない、ました長い文章は読まない」「それで買うか買わないか決められる?」「それでないと決められない。文章読みだしたら買わないでサイトから逃げる」とのことで確信的に文章は読まないらしい。この発言に法学部4年生が「確かに長い文章は読まない。六法全書スマホで見ることが多いから、長いものは途中でやめてしまう」との援護射撃があり、少し年上の人から「雑誌にしろ、本にしろ、今までほとんど読んだ記憶がないし、文章を読み始めると(内容が)わからなくなる。との援護があった。バンドワゴン効果もあって、聞いているこちらは「単語は読むが文章は読まない、読めない、理解できない」人たちが一定数固まりでいるとの理解になった。「え!じゃ、雑誌品は読まない?」「雑誌は写真だけパラパラみるが、本は読まない。厚い本は手も出さない」ということであった。この話題は「インスタばっかり見ている、インスタがあれば何でもわかる」という発言から発展してきた。

インスタは、(その店に)行った本人が写真を撮っているので店側が撮った(公式サイト)わざとらしさ、演出がないのがよい。中にはいろいろコメント書く人もいるが基本は読まないで写真だけをざっと見ている。とのことで、案の定、ツイッターは全く見ていなかった。情報はインスタ中心で、インスタで関心を持てば、その先に検索行動がある。インスタのバリアを越えないとマーケティングが成立しない人々の存在が確信できた。(何を今さらのことなのか?)

ここで少し一般化して、インスタに通じるのが絵本なのかと考えて見る。素人が自由に描いた絵本が詰まったサイト。絵の稚拙はカメラでカバーされている。絵本は作家の作品なので、それなりのコンセプトや推敲を経た作品だがインスタは素人が垂れ流す画像の違いはあるが、絵:画像がコトバよりも多い、重視されることは共通である。このとき、インスタだけを見ている人の認識構造と文字・文章の世界が中心の人のそれと何が、どこが、どう違う、のだろうか。インタビューしていてインスタ中心の文章排除の人の認識構造が特に貧しいとも偏っているとも思えなかった。

我々の文明はWebによって「無文字文明」に向かっているのだろうか。

Webは文字を呪っているのかも知れない。

喪失

今年の正月2日に子宮体がんで妻を亡くした。

確定診断から14ヶ月。

その時から死を覚悟させられたので上下の振動はあるもののこころは平穏だった。

妻の心の動きはわからなかった。

人生の振り返りや死、死後の世界の話しはついにでなかった。

ロスがいう拒否から始まる葛藤も見ていて感じられなかった。

劇的なものはなにもない。

葬儀、四十九日、納骨、そして新盆、これで儀式は完了。

彼女の人生が満足できるものだったかどうかはわからない。

不満はたくさんあったろうが、人生に満足かどうかを考えない人だったのでは。

長い夫婦は空気のような関係というが、空気がなくなるのだからそれは息苦しい。

その息苦しさは今でも間歇的に湧き上がる。

でもそれは妻を失ったからではないのではないか、と疑う。

これから先、全てを失っていく。

それが息苦しい。