satisfice回答者

n=1リサーチを他のネットリサーチでやろうとしたら、テーマが表題になってしまった。3つの製品ジャンル(食品)の実態調査からヘビー層を抽出して、そのプロファイリングからペルソナビルドまでを企画した。ヘビー層は直近3ケ月の食用頻度を5段階で質問した。1.ほぼ毎日がヘビーで、5.食べていないをノンユーザーとした。ヘビー層と思われるサンプルのローデータをチェックしていたら、3つの製品ジャンルともに「1.ほぼ毎日」と回答しているサンプルが発見された。製品ジャンル別に分析していたら発見できなかったろうが3ジャンル共通のヘビー層の視点に立ったことで異常サンプルが発見された。製品ジャンル名は具体的に書けないが、常識的には3ジャンル共通でヘビー層になるようなものではない。ローデータを追いかけると、食用頻度だけでなく、「最近増えた」「今後も増える」にも3ジャンルでチェックが入っていた。選択肢は共通に1.がヘビーや増えるとの積極性、5.がノンや減るとの消極性を表現していた。

以上から考えて、このサンプルは画面が表示されたら「自動的に1.を選択」していたと考えられる。ネットリサーチでなければサンプルに連絡して実態を把握する場面だがそれはできない。ではこういったサンプルを予め排除するにはどうしたら良いかと考えたとき、今流行りのAIで回答パターンから発見できるかというとリサーチは毎回フォーマットが違うので事前に排除できるほどのデータが蓄積できないであろう。回答パターンを事後的に分析してリサーチモニターから外す(配信しない)のが現実的であろう。たぶん、サンプルごとに回答時間のデータがあるはずだから極端に短時間で回答が終わったサンプルを排除するのも手かもしれない。

集計方法をいろいろ工夫するのも有効だが、ローデータを直接ながめることも分析に役立つ、というつもりが妙な「闇」の発見になってしまった。

ネットリサーチ結果からペルソナを作る

ネットリサーチになってから「原票」を見ることができなくなった。大昔は集計計画を作る前やデータの解釈に困った時によく原票をみるということをした。ストレートな解決には結びつかないが豊かなヒントをもらえた。サンプルひとつづつの回答票を最初か最後まで小説を読むように読み込むのである。すると回答してくれたサンプルの「心の動き(大げさ)」が見えてくることがある。質問間の矛盾は今は論理チェックで予め排除されるが訪問面接ではそこまでチェックできないので矛盾がそのままのこる。しかし、この回答矛盾をよく見ると新しいストーリー・文脈が見えてくるのである。それが分析に使えた時の喜びは相当のものである。こういうときリサーチャーとしての醍醐味を感た。

そのことを思い出したからではないが、昨日、ネットリサーチの報告書を書き終わった後「ネットリサーチの原票」であるローデータを見てみた。どうせなら典型的なサンプルを見てみようとそのテーマのターゲットとされるサンプルを探し出してスクリーニングから最終質問までをラベルデータと首っ引きで見た。さらに回答肢の文章をそのままにして、全体をストーリー化した。その文章を調査票の順番通りを基本に少しアレンジし、「抜けている」と思われる部分を「創作」すると、まあ、見事なペルソナができあがった。いわゆるn=1リサーチである。

この分析方法を発展させれば、クラスター分析のプロファイリングに使えるのではないか。と思っている。

調査協力依頼の挨拶状

社会学学会のレポートで、ネットリサーチモニターのsatisfice回答者問題が取り上げられた。回答者全体の5%くらいいたということで分析結果に影響を与えたとなっている。優良回答者に対してsatisficeは、早く終わらせるために質問文は読まない、選択回答肢も「適当に」チェックする回答者のことである。(噂ではあるが、ネットリサーチ回答プログラムを作って文字通りsatisficeする輩もいるとのこと)デタラメに回答していても論理チェックにかからなければ、正常データとして扱われる。

大昔、訪問面接調査が主流のときは、調査員と対面するのでデタラメ回答は少なかったというよりなかった。satisficeより問題だったのは調査拒否や不在で、回収率が6割を切るようになるとどれだけ精度の良い回答票を集めても「歪み」が大きくなってしまう。回収率を確保するためにサンプリング作業のあとは実査のまえに必ず「調査協力依頼状」を郵送していた。挨拶のあと市場調査の重要性・公共性を訴え、あなたにお願いするのは無作為抽出という方法でたまたま当たっただけで他意はない、回答内容は個別に扱うことはなく全体集計する、最後に味噌汁の味見と同じで少ない数でも全体を推計できるとサイド意義を訴えて終わる挨拶状を送ってから、調査員が訪問していた。謝礼はあったが、謝礼と言えるほどのものではなかった。対象者の回答・調査協力のインセンティブとして社会性を強調していた訳である。個々の対象者を納得させていたかは怪しいが、こういった意義を訴求することは調査員を始め調査スタッフのモラル維持には役立っていた。

ネットリサーチで同じようなことをやっても意味はないが、satisfice排除の取り組みはできるし、やるべきではないだろうか。IDごとの回答パターンを記録しておけばAIまで行かずともsatisficeは判別できると思う。クライアント側としては回収数のプレッシャーだけでなくクリーンデータの要望をだすべきであろう。それには集計表だけでなく原票(ローデータ)を見る、読むことが大切である。

でもカネにならないから誰もやらないよね。

ワークショップFGI Ⅱ

「思わぬ発見」のないまま終わるFGI。

わかっている(いた)ことの確認で終わるFGIという批判は相変わらずです。
マーケティングリサーチである限り、わかっていたこと(仮説)が消費者の「生の声」で確認(検証)できる機能はそれだけでも重要です。
ただ、FGIは定量的検証にならないこともあって、この不満が大きくなります。 
FGIに固有(定量調査にはない)の「思わぬ発見」が少ない原因として、
・質問☓回答形式にこだわりすぎるインタビューフロー
・会話が脱線しそうになるとすぐに軌道修正するモデレーション
の2つが大きいと考えています。
自由な会話、自由な発想を縛っていては「新しい発見」は生まれません。

そこで、FGI対象者をワークショップ参加者にすることを考えています。 
対象者条件を何度も確認され、受付で身分証の提示まで求められてFGIに参加し、始まると 「皆さんで自由に話して欲しい」といいつつ、いろいろと「ツッコミ」が入る状況では、対象者は突拍子もないことを言って非難や嘲笑を受けるのを避けようとします。
発言は、世間常識に外れない無難なものになり、聞いている方も納得性ばかり高くて「意外性」 の少ないFGIになります。
FGI対象者をワークショップ参加者として、自分の「知っていること、考えていること」を総動員してもらい「回答」ではなく、集団で作業をしてもらうことを目指します。

クライアントやモデレーターとしてFGIに参加したことのある人は、会話だけのインタビューより具体物を提示したり何か作業をさせた方がインタビューが活性化するという体験をもっていると思います。
これをもっと徹底させた場面をFGIの中に作るのがワークショップFGIです。
具体的には、FGI対象者に役割変容をお願いします。
モデレーターの質問に「消費者」として回答し、同じように集まった「消費者」達と会話するという役割から 、消費者の立場から離れてプロジェクトメンバーとして「共同作業」をしてもらいます。
そのために、
・テーマ、作業をよく理解してもらう(一般消費者の限界はある)
・開発者の立場に立ってもらう必要はない。消費者の立場から「作り手」の発想をしてもらう
などのモデレーションが必要になります。
これが始まったら、モデレーターもファシリテーターに役割変更します。

「思わぬ発見」「新鮮なインサイト」のあるFGIを目指して実験していきます。

ワークショップFGI

FGIは、
・あるテーマに全員の意識をフォーカスさせ
・参加者全員の自由な発言とお互いの議論を引き出し
その時のマーケティングテーマへの「回答(仮説づくり、仮説検証、新発見)」を導くことを目的に実施されます。
ワークショップは、研修やセミナーのやり方のひとつで
・作業・課題を決めて
・参加者同志、お互いに知識を出し合い、具体的な作業をする
ことで課題への理解を深めたり、参加者の意思統一(共通認識)を得る目的で実施されます。

FGIとワークショップはどこが似ているか
・それほど関係性の強くない少人数の集団を「強制的」に作る
・集団内は平等に扱われ、全員参加が前提
・リーダー(モデレーター、ファシリテーター)はいるが、調整役
などがFGIとワークショップの共通点です。
FGIは分析・報告書を最終アウトプットとするリサーチの方法論に従いますが、ワークショップの多くは 客観的報告書よりも参加者の「体験」そのものを重視します。ワークの結果、新しい企画が生まれる ことはありますが、多くの場合は「副産物」です。
アプローチの方向性は違うものの、FGIもワークショップも参加者の間にグループダイナミックスが働い て「思わぬ発見」があるところが似ています。
この「思わぬ発見」を目指してFGI対象者をワークショップ参加者に変身させるFGIをトライします。

リエゾンインタビュー

18日のアウラ・コキリコセミナーでリエゾンインタビューにトライした。テーマは野菜飲料のカゴメのユーザーブランドストーリーを描くとした。

リエゾンインタビューは1on1インタビューの発展形であるし、ペアインタビューの発展形でもある。1on1のモデレーターと対象者の対峙関係を和らげ、その場でできたペアの関係性をインタビューに活用するというやり方である。1on1の欠点として対象者との会話が集中しすぎてアソビがなくなり、最終的になんとなくギクシャクした関係、モデレーターにとっては「もうこれ以上この人にインタビューしても得ることはないな」とあきらめを、対象者には「もう、話すことはないし、この会話の目的がいまいち飲み込めない、欲求不満だな」との心理状態も持たせてしまう状況になる事がある。そこまでこじれなくてもお互いに「合わない、合わなかった」印象が残る。モデレータの力量の問題もあろうが、1対1の関係性から抜け出せないことも原因であろう。冗談などで他者視点を持ち込めば改善することもある。

そこで、最初から他者視点をセットして1on1インタビューを実施するのがリエゾンインタビューである。野菜ジュースのエクストリームユーザーであるとの共通点だけを頼りに即興のペアを作ってもらい、2人の会話をモデレーターは「聞くだけ」の立場で参加する。2人の関係性は最初はもちろんギクシャクするがお互いの自己紹介が終わる頃は双方向の会話がはじまる。モデレーターは時々、テーマの方向性を示すだけで対象者2人の会話を進行させる。発音しなかった子音が母音が連続することで現れるリエゾンを自然の形でおこしてもらう。本来的にはそれぞれを1on1で実施し、その後リエゾンインタビューに参加してもらう2段階を組まないと検証はできないが、リエゾン効果はあったと考えている。モデレーターとの1on1では定型的な質問になってしまう部分が、対象者同志なら自然な形で会話がからみあって螺旋状の盛り上がりが観察できた。

このリエゾンインタビューで「ユーザーブランドストーリー」を描くことは道半ばでおわった。ユーザーブランドストーリーとは、メーカーサイドのブランディング施策を換骨奪胎して独自で独特のブランドストリーを作った消費者(ユーザー)こそがエクストリームユーザーであると定義づけている。こういった内的ストーリーはモデレータと対象者の対峙関係では語られづらい。それを臨時のペアを作り、そこでの関係性を作り上げる過程を設けた方が語られやすいと考えている。このユーザーブランドストーリーを記述することで、その後のブランディング戦略が多層的になると考えている。

実験を続けたい。

 

電通的なものの黄昏

思いつきで何のエビデンスもないが、タイトルのことを考え始めている。本来は昭和(戦後)的なものが高度成長期・バブル期でピークを打ち、平成の30年間で長いダウントレンドを示し、平成の終焉でとどめを刺された。ということであろう思う。

電通的という内容は、鬼十訓にある「仕事は死んでも離すな」に象徴されていると思っている。電通の企画書はプレゼン当日まで徹夜で書き直され、推敲されて完成していくらしい。完成は最後の最後まで引き延ばされ、改良なのか改悪なのかは問わずギリギリまで追い込んだものでないといけなかったと聞く。これが過労死まで発展する残業の強制(自主的なのだが)になっていた。

もうひとつの電通的は政治力の使い方である。ビジネスには政治的要素があるとはいえ、「電通に逆らうとあとでとんでもない徹底的な嫌がらせを受ける」との神話・都市伝説が生まれるくらいであった。このような闇の力をもっていると勝手に相手が思い込んでいただけだが、それを巧みに利用する最高度の政治性があったらしい。

みっつめが男性原理の徹底である。女性はアシスタントであり、徹夜で仕事する男を支える「会社での妻」だったらしい。活躍したい女性は。女性だけの広告会社を作らされていたとのことである。これは単なるうわさだが社内不倫も多かったと聞いた。

この3つの電通的なことが平成末期で完全否定されてきている。働き方改革を待つまでもなく働き過ぎは避けるべきとの考えが浸透してきている。過労死事件以後は残業禁止になったらしいが。鬼十訓が死んだとは聞いていない。電通の政治力神話も最近は聞かない。ハリルホジッチ問題も電通とキリンが後ろで糸を引く構図が語られことがあるが、ハリルホジッチ自身は反論の容易があるらしい。そして電通から離れて長いし、短期間しか電通に在籍していないがアラーキーmetoo問題も電通的なものの終焉を象徴していると思う。個(私)を深堀していってその先に一般性が作れれば芸術としての厚みが出ると思うが、アラーキーの「私写真」にはそれがない。昭和であれば評価されたが平成末期では通用しなくなってきている。

この電通的なものの衰退を促したのがネット以外に何かありそうだがよくわからない。インターネットはテレビ広告のパワーをそぎ、それが電通パワーもそいだと考えていいのだろう。ネットは個人や会社固有の企画力(企画書力)も平準化してしまった。コピペで新人もベテランと同じ企画書が書ける(体裁だけだが)時代に徹夜で推敲するのは自己満足、パワハラの原因になってしまった。さらにネットはふつうの人の「告発」が容易になって、しかも政治力で握りつぶすことができずらくしたといえる。SNSによって私的な男女関係がいつ明るみに出るかわからなくなってきている。冷めた後どういう行動にでるかまで考えて付き合う男女などいない。

ネットによる「つながり」が電通的なものを終わらせる。

だけでいいのかもっと考えてみよう。