電通的なものの黄昏

思いつきで何のエビデンスもないが、タイトルのことを考え始めている。本来は昭和(戦後)的なものが高度成長期・バブル期でピークを打ち、平成の30年間で長いダウントレンドを示し、平成の終焉でとどめを刺された。ということであろう思う。

電通的という内容は、鬼十訓にある「仕事は死んでも離すな」に象徴されていると思っている。電通の企画書はプレゼン当日まで徹夜で書き直され、推敲されて完成していくらしい。完成は最後の最後まで引き延ばされ、改良なのか改悪なのかは問わずギリギリまで追い込んだものでないといけなかったと聞く。これが過労死まで発展する残業の強制(自主的なのだが)になっていた。

もうひとつの電通的は政治力の使い方である。ビジネスには政治的要素があるとはいえ、「電通に逆らうとあとでとんでもない徹底的な嫌がらせを受ける」との神話・都市伝説が生まれるくらいであった。このような闇の力をもっていると勝手に相手が思い込んでいただけだが、それを巧みに利用する最高度の政治性があったらしい。

みっつめが男性原理の徹底である。女性はアシスタントであり、徹夜で仕事する男を支える「会社での妻」だったらしい。活躍したい女性は。女性だけの広告会社を作らされていたとのことである。これは単なるうわさだが社内不倫も多かったと聞いた。

この3つの電通的なことが平成末期で完全否定されてきている。働き方改革を待つまでもなく働き過ぎは避けるべきとの考えが浸透してきている。過労死事件以後は残業禁止になったらしいが。鬼十訓が死んだとは聞いていない。電通の政治力神話も最近は聞かない。ハリルホジッチ問題も電通とキリンが後ろで糸を引く構図が語られことがあるが、ハリルホジッチ自身は反論の容易があるらしい。そして電通から離れて長いし、短期間しか電通に在籍していないがアラーキーmetoo問題も電通的なものの終焉を象徴していると思う。個(私)を深堀していってその先に一般性が作れれば芸術としての厚みが出ると思うが、アラーキーの「私写真」にはそれがない。昭和であれば評価されたが平成末期では通用しなくなってきている。

この電通的なものの衰退を促したのがネット以外に何かありそうだがよくわからない。インターネットはテレビ広告のパワーをそぎ、それが電通パワーもそいだと考えていいのだろう。ネットは個人や会社固有の企画力(企画書力)も平準化してしまった。コピペで新人もベテランと同じ企画書が書ける(体裁だけだが)時代に徹夜で推敲するのは自己満足、パワハラの原因になってしまった。さらにネットはふつうの人の「告発」が容易になって、しかも政治力で握りつぶすことができずらくしたといえる。SNSによって私的な男女関係がいつ明るみに出るかわからなくなってきている。冷めた後どういう行動にでるかまで考えて付き合う男女などいない。

ネットによる「つながり」が電通的なものを終わらせる。

だけでいいのかもっと考えてみよう。