インスタは無文字文化をめざす

先日、インタビューの対象として会話した女性から衝撃的な発言があった。「教科書以外の本を読んだことはほとんどない。雑誌なんて買ったことがない。自分の記録が載る陸上の雑誌は買うが、これも読むことはない」このあたりは、そうだろうな、と納得していたのだが「SNSはほぼインスタだけ、写真を次々に見ていくのは楽しいし、その中から買うものを見つけることもある。でもインスタのキャプションは読まない。写真を見ればわかるが、それに添えられた文章を読むとわかっていたこともわからなくなる」それに対して法学部の4年生という子も「試験の時以外は六法全書スマホで見るのですコロールして全文を読むことは少ないかも知れない」と同調した。

なかなかうまく理解出来ない。紙に印刷した文章、新聞雑誌、単行本を読まない、買わない人が若者中心に増えていることは実感できていたが、文章が理解を妨げる、理解を混乱させると聞いて、しかも奇をてらっている様子もないので、確かに文章を読むのが苦手というか文章を読む訓練をうけて来なかったことは想定できる。会話は支障なく複雑な会話もできるので脳に問題があるとも思えない。

そこで、文章で対象を理解することと絵(写真)で対象を理解することの差は何かを考えることになった。キャパの「崩れ落ちる兵士」は有名である。1枚の写真とキャプション(タイトル)だけで反ファシズム反戦の象徴(意味)たり得たのである。ただこれは写真だけでは達成されず、それを解釈するジャーナリズムのおしゃべりが必要だった。いまWikiをみてみたら、この写真がキャパの撮影ではなく、戦闘シーンでもない(だから、この兵士はその時死んではいない)という文章がえんえんと続いていた。文章を読むと意味がわからなくなる好例だが、彼女が言った「文章をよむとわからなくなる」とは違うだろう。もし、キャパの時代にインスタがあったと、逆に今の時代にキャパがインスタをやっていたとして、この写真の提示のされ方は、多分、その現場で撮影された写真多数を場所と日時の情報(コトバ)だけでアップしたはずである。それを見た彼女が何かを感じ、理解して、写真の意味やメッセージを考えるだろうか。おそらくはそうならず、キャパが描いたかも知れない説明文章を読んだとしても意味やメッセージは伝わらないということなのである。

インスタは認知の作用機序を変更してしまい、文章はもとよりコトバも無効にしてしまうのだろうか。コトバがないと認知も成立しないのでそれはないとして、文字・文章を無効化する力を秘めているかも知れない。インスタは無文字文化をめざす。

「量り売り」とパッケージング価値

パッケージング商品とノンパッケージング商品がある。昔はノンパッケージング商品は「計り売り(量り売り)」と言われたが、現在の音楽ソフトの売り方(買い方)も確かに「量り売り」の印象はある。ネットからDLできる商品はパッケージング不要であるが、パッケージングされてない商品は従来のマーケティングの考え方では把握しきれずこぼれる部分が出てくるのではと考えている。

パッケージの構成要素の中でネーミングは最重要でネーミングされずパッケージングされている商品はほとんどない。ネーミングはパッケージ表面に表示され、広告宣伝されて消費者に認知される。認知がない限りは売れることはない。現代の量り売り商品は広告宣伝(口コミ、インフルエンス)だけでネーミングを認知させ購入に結び付けなくてはいけない。店頭(サイト上)でもパッケージを示すことはなくネーミングとキャッチコピーと宣伝画像だけでクリックを促す。このサイト上の告知コンテンツがパッケージと言えば言えるが、当然、「さわる」ことはできない。パッケージング価値の中でこの「さわれる」ことは重要だと思うが、その点はまた考えたい。

このWeb上だけで告知・販売が完結する「量り売り」商品のパッケージングのやり方を考える、提案することは新たなマーケティング課題になるのではないかと愚行している。パッケージング価値をトータルで考え直してみたい。

暗黙知のインタビュー

M・ポランニーの「暗黙知の次元」を読んだのは30年位前だから当てにならない記憶だが、ネジを回すドライバー(ねじ回し)を持つ手(指先)の感触は、ドライバーを通ってドライバーとネジとの接点に至る。更にネジ山を通ってネジの先端に届く。これが暗黙知の次元であり、ここに至るには、初心者はもちろん無理で、ネジを回すベテラン、プロ、職人にならないと不可能である。ということをポランニーが言っていたと思う。ここからは、暗黙知は、体感であり、先端の感覚器官は触覚にということである。

地球の生命は、深海の熱水噴出口付近の酸素がない環境で誕生したとの説がある。それらの細菌はもちろん五感(感覚器官)はない(はず)。進化の過程で嗅覚、味覚が発展し、聴覚も発達して、最終的に「眼の誕生」で最高の感覚器、視覚が生まれたのであろう。豊かに降り注ぐ太陽光を利用した視覚、地球を覆う大気の中から危険情報を察知する嗅覚、食べて、飲んで良いものと毒とを識別する味覚、捕食者と獲物の気配を感じる聴覚と進化圧に適応させて感覚器官が発達してきた。この進化・発展のプロセスで最初に進化したのはおそらく触覚であろう。細胞膜と外界が触れ合うのが最初の触覚か、次に細胞膜と細胞膜が触れ合う触覚から多細胞生物ができていった。このように生命にとった最も原始的な母なる感覚は触覚ではないかと思う。(エビデンスなし)感覚器官の中ではもちろん視覚が王者であるが、触覚、「さわる」という感覚は他の4感覚の中にも潜んでいると考える。もっとも5感覚は相互に浸透的ではあると思う。「眼でさわる」もあるし「指先で見る」もあるので。

先日、池谷先生がこんなツイートをしていた。

<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">【身体の拡張】棒で物体に触れるとき、棒が手の延長として一体化したかのように、指先の感覚神経が反応し、精度よく接触位置を感知できるそうです。今朝の『ネイチャー』誌より→ <a href="https://t.co/xViWc1sYqj">https://t.co/xViWc1sYqj(ネズミがヒゲを、クモが巣を使って、物体を感知するときの神経反応に類似しているそうです)</p>&mdash; 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) <a href="https://twitter.com/yuji_ikegaya/status/1040248880632221701?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年9月13日</a></blockquote>
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 これは暗黙知そのものではないかと思い、その時、インタビューの分析をしていたのだが、まさに暗黙知的な体験の気づきがあった。我々のインタビューは観察(視線)もあるがほとんどはコトバ(聴覚)のやり取りで行われる。時々だが、対象者の発言(ことば)が触覚的な感覚を呼び起こすことがある。まさに対象者のことばに「さわれる」感覚である。このときはあるコトバの意味が論理的でもなく、文学的でもなく広がり、つながって行って、「意味のネットワーク」みたいなものに「さわれる」のである。この感覚(意味のネットワーク)を言語化しないと分析にならないのだが、多くの場合、やがて消えてしまう。

このインタビューにおける暗黙知の獲得はノウハウもなくマニュアル化もできない。ただ、長い体験の中で獲得しやすい体質になることはできる。コトバを聞くことで「意味にさわる」触覚の訓練である。インタビューを「質問と回答」の連続と考えている限り、暗黙知は降りてこない。

絵本とインスタグラム

あるインタビューで20歳の女性が、「ネットを使う時、文章や文字は読まない」と宣言した。「楽天やアマゾンで買い物する時、リコメンドや口コミは見ないのか」とプローブすると「簡単なコメントや文字、価格などの数値は見るが、文章になったらみない、ました長い文章は読まない」「それで買うか買わないか決められる?」「それでないと決められない。文章読みだしたら買わないでサイトから逃げる」とのことで確信的に文章は読まないらしい。この発言に法学部4年生が「確かに長い文章は読まない。六法全書スマホで見ることが多いから、長いものは途中でやめてしまう」との援護射撃があり、少し年上の人から「雑誌にしろ、本にしろ、今までほとんど読んだ記憶がないし、文章を読み始めると(内容が)わからなくなる。との援護があった。バンドワゴン効果もあって、聞いているこちらは「単語は読むが文章は読まない、読めない、理解できない」人たちが一定数固まりでいるとの理解になった。「え!じゃ、雑誌品は読まない?」「雑誌は写真だけパラパラみるが、本は読まない。厚い本は手も出さない」ということであった。この話題は「インスタばっかり見ている、インスタがあれば何でもわかる」という発言から発展してきた。

インスタは、(その店に)行った本人が写真を撮っているので店側が撮った(公式サイト)わざとらしさ、演出がないのがよい。中にはいろいろコメント書く人もいるが基本は読まないで写真だけをざっと見ている。とのことで、案の定、ツイッターは全く見ていなかった。情報はインスタ中心で、インスタで関心を持てば、その先に検索行動がある。インスタのバリアを越えないとマーケティングが成立しない人々の存在が確信できた。(何を今さらのことなのか?)

ここで少し一般化して、インスタに通じるのが絵本なのかと考えて見る。素人が自由に描いた絵本が詰まったサイト。絵の稚拙はカメラでカバーされている。絵本は作家の作品なので、それなりのコンセプトや推敲を経た作品だがインスタは素人が垂れ流す画像の違いはあるが、絵:画像がコトバよりも多い、重視されることは共通である。このとき、インスタだけを見ている人の認識構造と文字・文章の世界が中心の人のそれと何が、どこが、どう違う、のだろうか。インタビューしていてインスタ中心の文章排除の人の認識構造が特に貧しいとも偏っているとも思えなかった。

我々の文明はWebによって「無文字文明」に向かっているのだろうか。

Webは文字を呪っているのかも知れない。

喪失

今年の正月2日に子宮体がんで妻を亡くした。

確定診断から14ヶ月。

その時から死を覚悟させられたので上下の振動はあるもののこころは平穏だった。

妻の心の動きはわからなかった。

人生の振り返りや死、死後の世界の話しはついにでなかった。

ロスがいう拒否から始まる葛藤も見ていて感じられなかった。

劇的なものはなにもない。

葬儀、四十九日、納骨、そして新盆、これで儀式は完了。

彼女の人生が満足できるものだったかどうかはわからない。

不満はたくさんあったろうが、人生に満足かどうかを考えない人だったのでは。

長い夫婦は空気のような関係というが、空気がなくなるのだからそれは息苦しい。

その息苦しさは今でも間歇的に湧き上がる。

でもそれは妻を失ったからではないのではないか、と疑う。

これから先、全てを失っていく。

それが息苦しい。

イメージの喪失

ブランドイメージについて考えていてふと思ったのが、イメージは死語ではないかということである。コトバ的にはイメージの反対語は事実とか現実になるのだろうが、今の世の中ウソも含めて事実と現実であふれかえっていて、のんびりとイメージを思い浮かべることもなくなったきたのでは。大金持ちも有名女優もイメージではなく事実・現実を隠すことなくさらしてしまう。有名企業も「先進の」とかのイメージ広告ではなく、こういった商品、サービスといった事実を訴えている。ソニーやホンダがもっていたイメージはパナソニックトヨタとはあきらかに違う輝きがあった。今はそれをあまり感じない。

神秘性、神話性への強い共感がなくなって来ている印象(印象もイメージだが)これもWebのせいか。AIはイメージ形成される前に消えてしまいそう。

 

吉本隆明「共同幻想論」とリエゾンインタビュー

吉本隆明の読者であったことは一種の黒歴史になっている。それはそれとして、換骨奪胎いろいろ利用してリエゾンインタビューの理論づけに使ってみる。リエゾンインタビューは疑似ペアインタビューで、その疑似が豊かな物語(対幻想)を生むという利点を持っている。1on1インタビューは、個人の幻想を物語るもので、モデレーターはいるものの独白に近い。独白は始めるとすぐに行き詰まり、繰り返しばかりになる。それほどゆたかな幻想(物語)を持っている個人は少ない。まして、それがマーケティングテーマだったりすると「たまたま」や「よくわかんないけど」でデッドロックに乗り上げる。

これへの対策がFGIである。3人以上のグループで共同幻想(物語)を作ってもらうのである。個人と違って対話が成立するので、「気づき」や「物語の展開」があるので行き詰まりは少なく豊な共同幻想(物語)が語られることが多い。(業界的にはグループダイナミックスという)欠点はあらかじめ共同体を組織するので、知らず知らず社会規範や関係性の保持の圧力が働き、予定調和的共同幻想に流れ、いちどそこに流れ着くとモデレーターの技量だけでは脱することはできないことである。それどころかモデレーター自身が無意識に予定調和に誘導していたりする。その方が三方(クライアント、モデレーター、対象者の三方)丸く収まるが、新しい物語は生まれない。

個人幻想と共同幻想の間に対幻想を吉本隆明は設定するが、これが結構曲者である。隆明が強く影響を受けたフロイト心理学の影が大きく、性的な対の要素が強い。ここから家族、共同体、国家までを敷衍するのだから、それはそれでスリリングではあるが、マーケティングの世界ではない。この対幻想を性的なことを捨象して対幻想(ペア)を考え直せばよい。マーケティングインタビューでもペアインタビューがあるが、これは夫婦とか恋人同士とか家族全体(ネクサスインタビュー)を対象とするので隆明の対幻想概念をそのまま使える。

リエゾンインタビューはすでに出来上がった紐帯(ペア)に頼ることなく、その場でできたアットランダムな関係性を頼りに対幻想を物語たろうとする新しい方法論である。1on1より優れている点は、新たな対をキーにして2人の共同幻想語るので、個人幻想に沈むことなく、豊かで新鮮な物語が語られる可能性が高い。1人では貧弱な個人幻想がたまたま出会った他者の幻想に刺激され、活性化するのである。しかも、2人であるから社会性は小さく、社会規範や慣習による抑圧も少ない。ここから、共同幻想としての新しい価値が抽出できる。

共同幻想マーケティング的に解釈すると「ブランディング」が当てはまると思う。個人幻想は個人としてのブランド評価と考える。共同幻想は集団としてのブランディングであり、時として個人を阻害する。対幻想としてのブランディングは、そのものよりも共同幻想の歪みを是正してくれると考えている。ただ、個人的にはリエゾンインタビューこそが、ブランディングそのもを表現できると考えている。

*ここでのブランディングは、消費者サイドのブランディングであり、ユーザーブランドストーリ(幻想)である。