洗濯屋

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前から気になっていた荻窪のクリーニング屋さん。
わかりにくい写真だが薄いブルーの板壁の前には今では見なくなった洗濯屋さんの自転車が白い(くすんでいるが)配達用のふくろを載せて立てかけてある。
店内はもちろん昭和のままで、ジイサンがひとり煙管こそくわえていないが道行く人を品定めしている。
店の反対側にはコインランドリーもあるし、経営しているのが不思議なくらいである。
荻窪の北口のこの一角は他にも昭和のはじめを想起させる家・店が何件かある。

洗濯といえば、クリーニング屋さんが家に回ってくるのは年に数回だったが、道では自転車のクリーニング屋さんをよくみかけた。たいがいおしゃべりなおじさんが自転車に乗ってきて母親や祖母とどこのだれかさんがどうした、こうした(死んだ、カミさんに逃げられた、など)と長い世間話をしていた。
この店には失礼だが昔からいい加減な商売だったのかもしれない。

洗濯ついでに子供の頃、母親はたらいに洗濯板で手で洗っていた。
セッケンは、それで頭を洗うと髪の毛がバリバリ、顔がヒリヒリするようなしろものだった。(ミヨシ石鹸?)
たらいも洗濯板も洗濯機の普及であっという間に消えてしまった。
貧弱な胸の形容に「洗濯板」を使っても今の若い人は?であろう。

やがて洗濯用洗剤が発売され洗濯用の棒石鹸もなくなった。
kaoのマークの「化粧石鹸」で頭を洗ったのもつかの間、シャンプー・リンスが出てきて「文化的」な生活が実現した。
我々の世代は日本の高度成長を生活体験の中で実感できたが今後の日本はゆるやかに衰退していく可能性が高い。たらいに洗濯板の世界に戻ることはないだろうが、成長より衰退の方が難しそうである。
ただ、文化が爛熟するのは経済社会がピークを過ぎたあたりではないかと思う。
江戸時代は再来するか。