高輪ゲートウェイ

日暮里と田端の間が西日暮里とされたのに品川と大崎の間は高輪ゲートウェイとされた。何故、西日暮里であって東田端にならなかったかは知らない。いろいろと地域政治的な暗闘があったのか、その頃は駅名なんてどうでもよかったのかもわからない。今回の騒動(でもないか)で、JR東は高輪ゲートウェイに決めていながら、何故、一般公募形式を採用したか、一般公募にしたなら何故、組織投票で上位(1位でなくてもいい)にする工作をしなかったのか、が不思議である。ずさんといえばそれまでだが。

地名、駅名というのは記号としての識別性だけでなく多くの「物語」を抱え込むものである。その昔、羽越本線での社内アナウンスで、聞いただけでは漢字が思い浮かばない駅名が連続した。新発田、鼠ケ関、小波渡、鶴岡で降りてしまったが、余目、遊佐、象潟などが続いていた(記憶はあいまい)。聞いたことある地名(駅名)は音から来るイメージが湧いたし、初めて聞く音(駅名)からは音だけによるイメージが引き起こされた。

ベンヤミンだった思うが、聞いただけで、そこに行ってみたい、行ったことがあるような心的風景が出来上がる地名があると言っていた。彼らには漢字がないので音だけでのイメージなのだろう。日本語は漢字を当てはめるので表意文字の「意」が邪魔をすることもある。「あまるめ」の音と余目の漢字との間にはイメージの整合性がない。あまるめと聞くと行ってみたくなるが、余目では平板になってしまう。象潟は「きさがた」なのか「きさかた」なのか音の問題よりも「象」の意味の方に関心が行く。この音と文字には芭蕉にも思わず詠ませる力があるように思う。音もいいし、文字もよい。

高輪ゲートウェイは不動産価値を上げるためとの説があるが、JR東があの辺りで開発事業をやっているのかは知らない。不動産業の発想なら、いっそ、マンションポエムのようにサブのキャッチコピーも開発してほしい。詩からは遠いがマンションポエムを読むと笑いが浮かぶ。読むだけで笑わせる力はあなどれない。