南向き斜面に眠る

お彼岸に行けば、春のお彼岸まで墓参りなんぞには行かないのだが、フっと気が向いてチャリで出かかけた。
父親の墓には父親の両親と父親の弟(一生独身)と本人が入っているはずである。
だから、たぶん生前に自分で購入したのだと思う。ことによったら祖父が買ったのかもしれないが。
裏山と呼ばれる丘(狭山丘陵の一角)のひとつをふもとから頂上までお墓にして地元の人だけが入っている。
南向き斜面はこんな小春日和の日には暖かく、見晴らしもよいので(富士山、奥多摩、丹澤が見える、地平線近くには横田基地)おまいりでなく居眠りに向いている。
線香を火事かと思われるほどたくさん焚いて、煙もうもうの中でむせるのがじぶんの墓参りの作法になっている。
墓に手を合わせるが、別段、会話とかするわけではない。おふくろと行くと大きな声でいろいろ話をしているが、気持ちが分かるようでよくわからない。
だから、「何のために来た?」と思われるほど早い。

お墓は逝った者のためでなく、残った者のためにあると考えている。
自分が死んでも誰も墓参りに来なかったらさみしい。という人に時々会うが理解しかねる。
「だって、オマエは死んじゃってるんだから、わかんねえだろ!」とからかって終わるのだが、ある時、本気で怒り出した人がいた。
そのとき、本気でそう思って人もいるんだ。と驚いた記憶があり、その後はそういったからかいは控えるようにしている。
年齢的には死とか仏とか墓とかが身近になってきているはずだが「死ねば死に切り」の感覚は変らない。
死後の世界なんて生きているうちしか考えられない。