カタカナで呼ばれる

網野善彦『日本の歴史を読みなおす(全)』筑摩文庫がおもしろい。
第一章で文字の歴史について語っている。
カタカナ(片仮名)は15世紀くらいまでは神仏とかかわりをもち、しかも口頭で語ることにかかわる場合に用いられたとある。
神仏への起請文、神仏からの託宣などではほとんどがカタカナだっと言っている。
また、裁判関係の文書もカタカナがほとんどだということである。

落書(らくしょ)、つまり、「落とし書き」(落書起請文など)もカタカナで、これは「人の手から落とされたもの」は人のものではなくなり、神や仏の所有物となる。(勝保鎮夫の説)
だから、落書は人の力を越えた神仏の声としての力を持つ、と考えられたようである。
カタカナは口頭で語られること、神仏に関わることと強く結びついた表記法であったという説である。

ここで、突然、グループインタビューでの対象者の名札である。
個人情報保護法の施行、あるいはネットでのリクルーティングの普及にともなってカタカナでの名札が頻繁に登場するようになってきた。
主催者側は、漢字で表記すると「個人の特定」がしやすくなるので、我々はそれを防ぐ目的でカタカナ表記しています、という個人情報保護法へのエクスキューズの意味で使っていると考えられる。
あるいは、ネットのリクルーティングなので漢字までは聞きださなかった。ということかも知れない。

今、対象者の立場でインタビュー会場にやってきたとして、自分の名札がカタカナ表記だったら、どう感じるだろうかと想像してみた。
「個人情報の管理がしっかりしているな」と思う人はどれくらいいるだろうか。
それよりも「私は外国人ではない」「自分の苗字(名札)なのかちょっと迷う」「番号で呼ばれているみたい」などと違和感の方が大きいのではないだろうか。
インタビューの場がよそよそしく感じられるかもしれない。

このような危惧は、インタビューが始まってしまえば関係なくなるが、モデレーターとしてもこのカタカナ名札はやりづらい。
・名札と対象者個人を結びつけるのに時間がかかる。
・「なんとお読みするんですか?」「めずらしいお名前ですね」などとラポール形成の道具に使いづらい。
・個別対象者の個性がイメージしづらい
などである。

些細なことであるが、グループインタビューの対象者をサンプルとしてではなく、その時のテーマ解明の「協働者」と位置づける考えにはカタカナ名札はそぐわない。
カタカナにすると「人の手から離れてしまう」のである。