めでたさもちゅうくらいなりおらがはる

小林一茶は子供の時からあまり好きになれなかった。
子供心に「何故、そんなにすねている?」という感覚があったのだろう。
今、ググったら、まあ、不幸と災難のデパート(これは死に表現)のような人生で臨終は大火で焼け出された土蔵の中だったらしい。
そんな時、隣家の餅の匂いや団欒の声を聞けば拗ねるのは無理もないかも知れない。
ただ、そういった境遇とは別に一茶には「拗ねた」気質があるように思うが。
ちうくらいのめでたさの、中くらいも現代人の中くらいよりももっと下の意味らしい。
だから「中くらいならよし」とする解釈は成り立たないようだ。
そうなるといよいよ拗ねに拗ねた句ということになる。

正月は昨年1年がどんなに苦難に満ちたものでも除夜の鐘でゼロクリアする優れた浄化装置である。
このゼロクリア思想がないと人間は押しつぶされてしまって生きていけない。
ところが現実の生活は大晦日を越えて正月になってもひとつもクリアされない。借金は利子つきで残る。
一茶でなくても「これっぽっちもめでたくはない」のである。

日本は市場全体が一茶のいう「ちうくらい(ちっぽけ)」になりつつある。
こういった市場で拗ねずに生活(仕事)していく術を身につけなくてはいけない。
成長しか知らない我らの世代の晩年の課題であろう。