ジョブスはやっぱりかわいくない

56歳で膵臓ガン。CEOを退いて数か月。臨終の床では充足感が満ちてたのか、やり残してきたことへの焦燥感があったのか、ジョブスより年齢では長生きしてしまった自分には気にかかるところ。
数年前『アイコン』を読んだとき、すばらしい人だがこの人とは一緒に仕事したくないし、友達にもなりたくない(相手にしてくれないが)という感想を持った。
もっとも著者がジョブスにある種の「悪意」を持っている印象もあったが。
ジョブス本人はかわいくないが、彼が作り出すモノ達は美しく、機能的で、楽しく、人をワクワクさせるものだった。
若い女性からは確実に「カワイイ!」と称賛されるたぐいの特にデザインだった。

で、A・D・ノーマン『エモーショナルデザイン』p88
 デザインの世界では「かわいい」は一般につまらない、平凡で、深みも内容もないものとして非難される。
 デザイナーは仲間から想像力に富み、独創的で、深みがあると思われたい。
 だから、「きれい」「かわいい」「楽しい」ものを作ると良くは受け止められない。しかし、いくら単純
 だとしても、それらのための場所が生活の中にはある。

ここで、ジョブスが作り出した作品群を見るとき、彼はノーマンが「それらのための場所が生活の中にはある」と言っている「場所」をどのように見出していたのかということが気になる。
この場所が確定できていればデザインや組み込む機能に関してのディレクションでブレることはないはずである。
リサーチの世界なら、エスノグラフィーだの行動観察だのペルソナだのが出てくるがジョブスはどうしていたのか
非常に興味がある。
前々からジョブスは1人称ペルソナを自分自身として設定していたのではないかと憶測していたが、それが正しいとしてその「場」はどんなところだったのだろうか。
天才の天才たる所以を凡人が考えても仕方ないのだが、ペルソナが実際に動いていた「場」はどんな場所だったのだろう。

あと膵臓ガン。
このガンは生存率、生存期間が短いので患者団体の圧力が小さく、研究費(科研費)が少ないらしい。
強いヤツが生き残るのではなく、生き残ったヤツが強いということ。