光の祭典

LEDの光って何か宇宙的、無機的な感じがして好きです。

さすがにランプの生活の経験はありませんが、蛍光灯が我が家についた時は世界(自分の家)がアメリカのテレビホームドラマに家になったと錯覚しました。その後、蛍光灯には影が出来ず暖かみもないので家庭の照明にはふさわしくないという説を知って「そんなもんかな。でも、裸電球の家はクライよな。」と我が家は蛍光灯一本で来たようです。(年齢のせいか最近は白熱灯をとミックスしてます)

2000メートル級の山頂の星空、神戸、函館の夜景、繁華街のイルミネーション、ライトアップの東京タワー、長岡の花火とそれぞれ感動の光でした。
中でも鳥肌がたったのは東京ディズニーランドエレクトリカルパレード。提供ユニシスなんてことも思い出せます。小さかった娘にせがまれて1時間以上待たされて「ヤレヤレ」と思っていた頃、パレードが始まりました。どうせ子供だましとタカをくくっていたら完全に足元をすくわれました。
光の洪水がの粒々が自分の視覚ニューロンを直接刺激したような、外からではなく脳の中から来るさざ波が肌を粟立てたのです。
意味とか理解とか解釈やらを完全に越えた「力」のある光だったのです。

先日、秩父の低い山の山歩きの帰り、ふもとの集落で懐かしい「とうろう」を発見しました。
四角に木組みして、和紙(障子紙)を張り、長い棒の先に取り付けただけのシンプルな作りの灯籠の表に絵を描きます。
これを各家の表に掲げ、神社の参道沿いにはほぼ等間隔で両側にたてて行きます。絵は各家が勝手に描いたと思っていたら、今回、何かテーマがあり、詞書きもあることを発見しました。
そして夕暮れとともに灯籠のなかのろうそくに点火するのです。
ゆらゆら揺れるろうそくの光で絵が動画のように動くし、色も鮮やかになってきます。このとうろうが裏山のてっぺんにある神社までずっと続いて輝く景色はなんとも言えず幻想的で、やはり神経細胞を直接刺激する感動をもたらしました。

記憶では「とうろうまち」というお祭りで、子供達が「若衆宿」的に集まって準備し、「かどづけ」のようなこともやりました。(キリスト教ならハロウィンか?)
「とうろうまちのゼネくんなー!」と各家を回り、お菓子やお金(これは少ない)を集めてまわったのです。「あの家はケチだから大勢で行こう」「あの(オレ)家は貧乏だから、アノ家は忌中だから、止めよう」などと作戦をたてて出かけたものです。

あのお祭りは完全に廃れてしまいました。
我が家に蛍光灯が来る前、道に「街灯」がともる前の東京の田舎の話。
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