不老不死

池田清彦さんのPHPサイエンスワールド「寿命はどこまで延ばせるか?」を読んだ。新発見はなかったが、細胞、個体、種レベルでの生と死がよく理解できた。
理解はできても個体の死、ひいては自分の死については悩ましさは変わらない。
少年のころは「夭折の天才」に憧れたが、すぐに天才でないことが知れ、夭折の意味はなくなった。それからは軽い鬱状態のとき自殺がちらつくこともあったが具体性は一切なかった。家族をもてばそのような考えは遠ざけていないとならないし、そんなこと考える余裕もなかったのだろう。

さて、還暦が近づいて考える死は「老い」と表裏一体で夢も美しさもない。老醜とはよくいったもので、老成といえば聞こえがよいものを身も蓋もない表現だが事実である。
そこで考えるワガママは老醜を押さえて死ぬときはすっきりと死にたいと言うことになる。夭折の天才的死に方に近いことになる。
個体としての自分は魂とか永遠不滅とかは考えないタイプで、「死ねば死にきり」で生命38億年の歴史に殉じることに何の不満や恐怖はない。

ただ、戸塚洋二さんのようなバリバリの自然科学者でも癌との戦いの途中で仏陀に非常な関心を寄せたことを知るとほんとに自分という個体の死と向き合った時の自分の心は想像できない。