嗅ぎ分け

何年かぶりで吉行淳之介を読んでいる。もう、ほとんど読みつくしているはずだし、同じような文章をあちこちで書き散らかしている作家なので、何を読んでも既視感があるが年月をおいたおかげで新鮮に読めている。
戦争が始まった学校の風景で、校内放送のスピーカーの前に集まって興奮する同級生と教室にひとり残ってなんともいえない違和感をもてあます様子が鮮明に描かれている。さらに上級の学校に行けば、「仲間か、それ以外か」を逢った一瞬で嗅ぎ分けざるを得ず、その技術は格段に磨きがかけられていったらしい。
いまの若者たちが言っている「KY」とはレベルの違う嗅ぎ分け技術が必要だった時代である。こうした感覚、姿勢はどのように形成されるのだろうか。自分の感性に合うとか合わないではなく、おおげさに言えば存在論的なにおいの違いを嗅ぎ分ける、そうせざるを得ない姿勢である。全体の空気に流されていればストレスもなく、他人を警戒する必要も、嫌いになることもない生活が送れるのに。
戦後になって、みんなが、全体が、平和と民主主義一色になれば、それへの違和感、反撥も戦中以上に強くなる。

うろ覚えだが、村松友視の回想で、吉行の芥川賞?受賞の時に審査員が年下のスター三島由紀夫で、受賞の前後にこの2人が短い会話をし、そのときの吉行のうろたえぶりと三島が初めて会合に遅刻し、言い訳までしたことを書いていた。(その数日後、三島は市ケ谷で腹を切る)たぶん、嫉妬は少ないが吉行は三島に違和感を持っていたはずだし、三島も表立って吉行作品は読まなかったはず。2人とも肌の違いは嗅ぎ分けても「仲間か、それ以外か」ではなく「認めるが、違う」といったところではないだろうか。

蛇足で、昔から、茂木健一郎さんには「それ以外」の臭いを感じるのですが。