あと何キロ

 ここ数年レースから遠ざかっているが走行距離は結構稼いでいる。100キロ/週がきほんだから、月に400キロくらい乗っている。ほとんどが平坦コースで神社巡りが多い。練習よりもサイクリング重視である。最近の収穫は回転が早くなり、引き足が自然になってきて長距離をやっても以前ほどは疲れなくなったことだ。まあ、年齢が年齢だから無理しないというのもある。電動自転車に追い抜かれても気にしない。そして、自転車が楽しくなってきたのである。週末2日が雨だとがっかりで少しの雨なら出かけることもある。今日もコケて擦り傷を作ったが、最近良くコケる。これも年齢のせいと諦めてている。

チャリ仲間で80才になってもオレより早く、タフで毎週練習に来ていた人が最近とんと見かけなくなった。5年くらい前、大転倒して側溝にはまり込んで救急車、1月以上入院していたが退院したらすぐに乗り始めた。独特のペダリング理論を持っていて、それを実現するペダリング練習機を手作りしていた。(実用新案出してたかも)日本も中学生くらいから正しい訓練しないとツールドフランスを走るような選手はなかなか出てこないとのことで親戚の中学生の教え始めたが半年で他のスポーツに逃げられたらしい。

その人は例の双葉町から避難してきた人でこっちで生活基盤を作ったから故郷には帰らないと言っていたが、帰ってしまったのかもしれない。あるいは走れなくなる体の不調が出てきたかもしれない。オレもあと何キロ走れるか。

水仙

水仙にタイヤ取られて。。

庭先に前タイヤを外して置いていたら、2週間で水仙の花が咲いてしまった。

この時期、花粉がひどくて乗ることはないのだが、タイヤに絡まれると「オイ!」と言いたくなる。

朝顔は一晩でつるべを取るらしいが、水仙は春の花らしく2週間かかった。

ウチの庭にはこの水仙しかない。

白い花の水仙は育たない。


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ブランディングとサイズ感とドロリッチ

ドロリッチが終売になるらしい。いっときは年間100億を突破したブランドだし、10年間続いたのだからヒット商品と言って間違いない。Twitterでは、容量を減らしたのが原因と指摘する人が多い。内容量はブランディングにとって重要な要素だが、テキトーに変更されることも多い。内容量を製造原価としか考えないからである。

実は、ドロリッチが売時されて数ヶ月後に「どれくらい伸びるか。どう対抗するか」をテーマに調査したことがあった。はっきりしたことは言えないが、結論は「ヒットするが、自社ブランドには影響しない。従って、対抗手段を講じることは無駄な投資になる」だった。担当者はミーツー商品の仕様まで検討していたので結論に不満で、調査内容にクレームをつけ、以後「出禁」に近い状態になってしまった。(担当は結構エライ人だった)

その時は気づかなかったから報告書にも書かなかったが、ドロリッチユーザーの評価の中に「ちょっと量が多い(多すぎる)」との発言が目立った。中には残して捨てることもあるということであった。これはドロリッチの欠点と考えられるが、この多すぎる内容量が食感と味、オケージョンを含めてドロリッチブランドをブランドたらしめていたのではないかと今になって思う。だから、ドロリッチコーヒー飲料ではないし、デザート・スイーツでもない新しいセグメントを形成していた、のであろう。

記事によると当初は220gあった容量が120gまで少なくなったそうである。結果論で言えば容量が半分近くまで減ったらブランディングを最初からやり直す必要が出てくる。サイズバリエーションで対応する手もあっただろうがコンビニの棚を考えたら、売り上げが落ち始めたブランドのサイズバリエーションは無理だったのだろう。多分、売り上げが落ちはじめたので、製造原価を抑えるか値上げをするかの選択だったのだろう。それにしても、220から120はやりすぎである。それだけ内容量を落としたらパッケージも作り変えるはずだから製造原価の合理化は少ないとも思うが、どういう検討がなされたか全く知らないので憶測だけである。

ここ数年、牛乳やヨーグルトで内容量を(黙って)減らすことが行われている。「500のヨーグルト」と呼ばれている商品は400gしかない。500のヨーグルトを一気食いする人は極めて少ないのでブランディングへの影響はない。値上げを避けるためという大義名分も成り立つ。しかし、ドロリッチは1回食べきりのパーソナル商品である。それが容量を変えるとなると消費者にとってはブランドが変わることになる。

ドロリッチのブランドを作っていた要素の中で「チョット多い」は重要なプラス要素だったのではないだろうか。FGIで「チョット多いのよね」の発言を自分たちの都合の良いように(製造原価の合理化)解釈したのではと想像している。飲料や食品の内容量はブランディングの極めて重要な要素である。変更するときは慎重に検討すべきである。

あと、FGIのモデレーションと分析には定量調査のそれよりも客観性が要求されると言うことが言えそうである。最近、(メーカーの)担当者自身がモデレーションをやる場合が多いが、やはり、外部の人間にやらせるべきである。

もうすぐ一周忌

別に愛とか恋とかではない。

30年以上一緒に生活してきた人が亡くなって1年になろうとしている。

考え方や行動に同意できないものもあったが幸い離婚せずにきていた。

まさに空気のような存在になろうとした時に死んでしまった。

祖母、父親、母親、を失ってきたが、コトバは変だが妻はやっぱり格別である。

この1年、炊事・洗濯・掃除は全く苦にならない。淡々とこなしている。

野村克也さんが、奥さんが亡くなって「何もかもおもしろくない」と言っていた。

なんとなくわかる気がするが、まだ、やり残している仕事がオレにはある。

これが完成したら、ほんとに生きていても何もおもしろくないかもしれない。

そうなっても死ぬまで生きているだろう自分の姿がうまくイメージできない。

そういえば、江藤淳は奥さんを亡くしてすぐに自殺したと記憶している。

あの文体からは想像できなかった。

生まれるときは誰も自分の意志ではない。

死もそうであるのか、意思をもてるのか。

「もう、いいや」と思えればいいのだろう。

高輪ゲートウェイ

日暮里と田端の間が西日暮里とされたのに品川と大崎の間は高輪ゲートウェイとされた。何故、西日暮里であって東田端にならなかったかは知らない。いろいろと地域政治的な暗闘があったのか、その頃は駅名なんてどうでもよかったのかもわからない。今回の騒動(でもないか)で、JR東は高輪ゲートウェイに決めていながら、何故、一般公募形式を採用したか、一般公募にしたなら何故、組織投票で上位(1位でなくてもいい)にする工作をしなかったのか、が不思議である。ずさんといえばそれまでだが。

地名、駅名というのは記号としての識別性だけでなく多くの「物語」を抱え込むものである。その昔、羽越本線での社内アナウンスで、聞いただけでは漢字が思い浮かばない駅名が連続した。新発田、鼠ケ関、小波渡、鶴岡で降りてしまったが、余目、遊佐、象潟などが続いていた(記憶はあいまい)。聞いたことある地名(駅名)は音から来るイメージが湧いたし、初めて聞く音(駅名)からは音だけによるイメージが引き起こされた。

ベンヤミンだった思うが、聞いただけで、そこに行ってみたい、行ったことがあるような心的風景が出来上がる地名があると言っていた。彼らには漢字がないので音だけでのイメージなのだろう。日本語は漢字を当てはめるので表意文字の「意」が邪魔をすることもある。「あまるめ」の音と余目の漢字との間にはイメージの整合性がない。あまるめと聞くと行ってみたくなるが、余目では平板になってしまう。象潟は「きさがた」なのか「きさかた」なのか音の問題よりも「象」の意味の方に関心が行く。この音と文字には芭蕉にも思わず詠ませる力があるように思う。音もいいし、文字もよい。

高輪ゲートウェイは不動産価値を上げるためとの説があるが、JR東があの辺りで開発事業をやっているのかは知らない。不動産業の発想なら、いっそ、マンションポエムのようにサブのキャッチコピーも開発してほしい。詩からは遠いがマンションポエムを読むと笑いが浮かぶ。読むだけで笑わせる力はあなどれない。

作話と解釈装置

インタビュー調査での対象者の話には多くの作話が含まれているのではないか、と考えている。そして作話は「正直なウソ」と言われるくらいだから、頭から否定せずに分析に使ってもよい、使うべきと考えている。最近、ザガニガの『人間とは何か』を読んでいて、この作話は左脳が担当しているということであった。普通、言語野は左にあるので当然といえば当然である。ザガニガによると作話は「知っていること」に基づいて行なわれるのであって、完全な創作はないとのことである。正直なウソと言われるゆえんである。そして、作話とは言わずに「解釈装置」と表現している。与えられたデータだけで、理由がわからないことの理由を作らなくてはいけない。相当なプレッシャーのはずが、いとも簡単に納得できる「解釈」をしてくれる。

この「解釈装置」がインタビュー中に発動しているかどうかは実験しないと確信を持てないが、あまりにも納得しやすい理由を物語のように話されると「?」という気持ちが強くなる。でも考えて見れば定量データを含めて分析という行為はこの「解釈装置」は発動することになるのではないだろうか。

AIもこの解釈装置を作っているのではないだろうか。

でじたる・だぶる

近未来のAIは「デジタル・ダブル」だと日経サイエンスでP.ドミンゴスというワシントン大学の先生が叫んでいる。

理解した内容は、AIの進化によって殺人ロボットやロボットの支配者が現れるという未来を想像してもそんなことは起こらない。それよりも各個人の分身(アバター)が本人に近い思考や感覚も持つようになる。ある意思決定の場面でその分身にシミュレーションさせてその結果を参考に意思決定すれば、失敗は少なくなる。仕事なら有能な秘書として使えるので効率が格段に上がる。旅行や出張が面倒なら分身を派遣して、旅行感覚を味わえるし、出張先のしごともこなせる。ということでAIは想像以上の新しい世界をもたらす可能性がある。とシンギュラリティと正反対のバラ色の世界である。

ここでいくつか疑問がある。本人(本体)と分身(アバター)の自己同一性はどうするのか?個人が同時に違う場所に存在することになるのか(統合失調症)。本人が生物学的に死んだあと分身はどうなるのか(現在のWeb上の消えないデータ問題)。今現在のAIが持っている「縦割りの対応」をどう統合するのか(これは「マスターアルゴリズム」で解決するらしい)

シンギュラリティを心配するよりデジタル・ダブルを考えた方がストレスはなくなる。AIの進化、浸透はヒトの脳の進化にも大きく影響しそうである。前頭前野がより複雑豊富になる突然変異がゲーマーの脳(シナプスのDNA)の中で起きているかも。100年後の人類は、現在の我々を新しい種として分類しているかも。

日経サイエンス2018.12