「ことばと思考」のエスノグラフィー

岩波新書で今井むつみさんという人の「ことばと思考」を読んだ。
認識や思考は言語を使って行われるので言語に規程される、だから、母語が違うと認識や思考が違ってきて相互の理解は不可能、とまでは言わないが、基本的に理解不能な部分が生まれる。
一方、言語にはどの言語にも共通の構造があるから認識や思考は共有できる。
どちらか一方が正しいということではないらしいが、思考や認識は言語を使って行われるという部分が気になった。
それは間違いないのだろうが、言語を使わない認識は思考はないのだろうか。
あるいは言語のクビキを取り払って考えることや理解することは不可能なのだろうか。
トーテムとかトーテミズムとか名詞をラベリングする前のそのものや習慣(姿・形、動き)を認識し、意味を考えるというその瞬間から言語が入ってくるのか?

野生の思考も「野生の思考」という書物で言語化されて初めて認識の対象になったのだろうが。
エスノグラフィーと言語の関係をもっと考えなくては。