舞い降りるリサーチの神

最近、グループインタビューでモデレーターのすぐ横の席に座っていただいたクライアントの方が「印象が全然違いますね!」とある感動をともなって話された。
こちらにはモデレーターを始めた頃の感動がよみがえった。
体験してみないとわからないことだし、モデレーターの席に座れば、誰でもいつでもこの印象が訪れるわけではないが1on1でもグループインタビューでも「その場の空気を共有する」ことで、その時のマーケティングテーマ、その時の対象者個人、その時のグループ全体の「意味」が一挙に理解、了解できる瞬間が訪れる。ことがある。

共感的理解という意味で人類学者の参与観察における了解と似ているのではと想像している。
対象の中に「棲みこむ」ことができてこそ可能な対象者理解なのである。
インタビュー会場で対象者と一緒に会話していると、言う・言わない、とは別にこの人は(この集団は)このテーマにこういう態度を取るという認知が天啓(おおげさ)のように訪れる瞬間がある。
これは、ボディランゲージまで理解できるかどうかといったコミュニケーション論の話ではない。
ところが、VTR録画だったり、鏡越しの観察だったりするとほとんど、いや全くこれは発生しない。鏡1枚で空気が切れてしまって、「場の共有」ができないのであろう。
そこで、バックルームの人はコトバを聞き取ろうとする。「1番の人はこのコンセプトを好きと言ってるの?」かどうかに関心が集中してしまう。対象者を「観察対象」として客観化しすぎてしまう。

こういったインタビューの後のデブリーフィングが問題である。
モデレーターの認識とバックルームの認識が乖離しているだけでなく、モデレーターは「天啓に打たれて」法悦状態なのにそれを他人に伝える言語が生まれてこない。
しゃべりだすと滔々と喋るのだが、そのうち自分でも何を言っているのかわからなくなる。
これでは仕事としてカネがもらえる状態ではない。
さらにこの状態のままレポートを書くと、時に「悪意に満ちたレポート」と非難されることもあって、ますますカネがもらえなくなる。

モデレーターとして成長すると自分の認識(天啓)とは別に「バックルームで見ていたらこうだろうな」という視点が持てるようになる。
ところが、残念なことにこういう視点を持つと天啓は訪れなくなるのだ。
リサーチの神が舞い降りているのに客観的視点がその空気を邪魔してしまうと考えている。

モデレーションを続ける動機として、この神が舞い降りる瞬間の法悦が大きいと考える今日このごろ。