恥知らずな折衷主義

アメリカ社会学は都市社会学として、都市の成長・発展とその病理についての研究として位置づけられると思う。その都市研究にエスノグラフィーが使われた。ただ、エスノグラフィーだけでなく、普通のアンケート調査、心理テスト、行動観察、インタビュー、二次データ分析など手に入るあらゆるデータを使い切り、「切り貼り」して論文を作り上げている。
これを「恥知らずな折衷主義」と呼んだのがシカゴ大学のサトルズ教授である。

暴走族のエスノグラフィーの佐藤さんもこの「手法のごった煮状態」を積極的に利用して研究を進めたそうである。暴走族に限らずある社会集団をまるごと理解できるような理論や方法があるわけないと言われれば確かにその通りではある。しかし、まがりなりにも理論らしきものがある経済学や心理学に比べて社会学は「科学」的とはいえない。
社会科学の中でも方法論や理論が確立されておらず、その時の研究者の印象や感想の「作文」が論文として通用する「恥知らずな折衷主義」がまかり通る学問分野は社会学をおいて他にないかもしれない。

ここまで考えて、マーケティングを見てみる。
マーケティングの出生は経済学になるのだろうが、成長の糧となったのは社会学がもつ「恥知らずな折衷主義」だと断定できそうである。
さらにマーケティングの嫡出子であるマーケティングリサーチは、統計理論という借り物、外付け、外挿された科学はあるが、それさえもうまく内実のものと出来ずに恥をさらしつつ折衷主義で進んできている。マーケティングやマーケティングリサーチを科学、学問として自立させようなどとは思っても見ない、糊口の術と割り切っているとはいえ、なんとなくさみしい初秋の風である。

とながながとゴタクをならべた後、
ごった煮の方法論のなかでもエスノグラフィーが最も新しい、深い発見や印象をもたらし「暴走族のエスノグラフィー」の骨格を作ったと佐藤さんが序章で述べている。
その佐藤さんのことばと、自分が漠然と考えていた、マーケティングリサーチのレポートを豊にするのは、エスノグラフィーの方法論を深化させることだということが一致して喜んでいる。
というしょうもない結論です。

その第一歩は民俗学民族学)と切りはなしてエスノグラフィーを考えることだと思う。