多摩川文化村

中学生の学校行事で登った笠取山を水源として幼少期(谷川)は一之瀬川といい、この一之瀬部落にはテニス?のキャンプに行き、やがて丹波川として川らしい姿になったあたりは自転車のヒルクライムの練習に使い、小河内ダムの工事では生まれて初めてダンプトラックを見て度肝を抜かれ(5歳くらいだったか?)ダムを滑り落ちたあとは、秋川、浅川の流れも引き込んで多摩川として成人して羽田沖でその一生を終えます。

現在の多摩川は地質時代はもっと北を流れていて数万年をかけて現在の位置に下がったそうです。自分が生まれ育った地までは多摩川の河岸段丘が2つから3つ観察されます。
河岸段丘にあるため多摩川の水の利用が十分できず、富士山の火山灰でできたローム層があるため水田より畑作が中心で農業地としては貧しかった地域と考えられます。

水が豊かにあるのに乾燥した風土に注目して、それにふさわしい多摩川文化を創ろうと構想したことがあります。当時、近代化すべき世界は東北エリアの暗いイメージが色濃かったせいもあって明るい野放図な文化にあこがれていたのです。
ポストモダン多摩川。
国立から八王子、羽村町までのエリアを想定していました。
飲み屋でのホラ話から少し具体化する気配がありましたが、当然、立ち消えました。

忌野清志朗が亡くなりました。
カレは幻の多摩川文化村の幻の村長です。