遠くまで行くんだ

涙が涸れる

きょうから ぼくらは泣かない
きのうまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活のなかからみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引き出しからつかみだすように 心の傷から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす

しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とおり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしている
胸のあいだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とおくまで
ゆくんだと告げるのである

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みをからみ合わせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ

吉本隆明吉本ばななの実父)の若書きのあまりできのよくない詩ですが「とおくまでゆくんだ」のリフレインが心に残ります。
当時、永六輔が「遠くへいきたい」とジェリー藤尾中村八大の作曲で歌わせ、TBSが同名の旅番組の主題歌として使い、それは長寿番組となりました。
今は「派遣村」や「地球環境問題」に流れている左翼的叙情主義(主義とはいえない)の叙情性が現在よりよりはっきりと見えていた時代です。

ここで「とおくまでゆくんだ」という将来に向けた若い決意の前に、第一行で「きょうから ぼくらは泣かない」と過去と決別する決意があることに注目したいと思います。
最近、「女の前で号泣する男」という本を読んで、女と別れるときに人前もはばからず号泣する男が増えているそうで、何故だろうと考えました。
そしてふと思いついたのが、この第一行でした。
男は、家族や地域の共同体から離れると必ず「壁」にぶつかり、その理不尽さに憤慨するものです。この壁は乗り越えるべきとされる個人的な壁ではなく、エルサレム村上春樹が言っていた壁です。この壁を見た(実感した)時、卵(オトコの子)は「きょうから 泣かない」と決意するのです。
ここで結論
半世紀にわたって戦争も政治的、宗教的に深刻な対立も経験していない日本のオトコの子には壁が見えなくなってしまったのでは、だから女にふられたくらいでつぶれて泣き出す卵にしかなれないのではないでしょうか。
これは決して悪いことでも不幸なことでもないのですが、壁が現れたとき、それに立ち向かって飛んでいける卵にはなれないのかもしれないという心配は、老人の繰言かもしれません。

女の前で号泣する男たち-事例調査・現代日本ジェンダー考女の前で号泣する男たち-事例調査・現代日本ジェンダー考
(2008/10/03)
富澤 豊

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