マルチチュード

3年遅れの読書。
ネグリ・ハートを1人の人物と思いこんでいたくらいです。
「わかりにくい」、マルチチュードの概念と現実の政治、経済、社会がどう関係するのか、マルチチュードと新概念として提示する意義が理解できない。
(まっ、「帝国」さえ読んでいない自分には無理ということですかね。)

神経生物学者たちは長年にわたり、精神は身体から自立しそれを支配するという伝統的なデカルト・モデルに意義をとなえてきた。彼らの研究は精神と身体が同一の実態の属性であり、両者は理性や想像力、欲望、感情、情感そして情動の生成に置いて常に同等に相互作用していることを明らかにしている。さらに脳自体も、単一のエージェントに伴う集権的モデルに従って機能していないことが突きとめられている。思考とは、何十億個もの神経細胞が一貫したパターンのもとに生起させる化学的出来事ないしは協調だと理解すべきであると彼らはいう。脳には誰も決定を下す一者は存在しない。ただ協調的に活動する群がり(スウォーム)ーマルチチュードーが存在するのみなのだ。

ここで、マルチチュード概念はある程度理解できるのだが、これと著者2人が言う、戦争、民主主義、労働(者)の解放にブリッジがかからない。
特に戦争は、国家総力戦を2回(3回)も戦った20世紀的戦争概念に思えてしまう。