作話と解釈装置

インタビュー調査での対象者の話には多くの作話が含まれているのではないか、と考えている。そして作話は「正直なウソ」と言われるくらいだから、頭から否定せずに分析に使ってもよい、使うべきと考えている。最近、ザガニガの『人間とは何か』を読んでいて、この作話は左脳が担当しているということであった。普通、言語野は左にあるので当然といえば当然である。ザガニガによると作話は「知っていること」に基づいて行なわれるのであって、完全な創作はないとのことである。正直なウソと言われるゆえんである。そして、作話とは言わずに「解釈装置」と表現している。与えられたデータだけで、理由がわからないことの理由を作らなくてはいけない。相当なプレッシャーのはずが、いとも簡単に納得できる「解釈」をしてくれる。

この「解釈装置」がインタビュー中に発動しているかどうかは実験しないと確信を持てないが、あまりにも納得しやすい理由を物語のように話されると「?」という気持ちが強くなる。でも考えて見れば定量データを含めて分析という行為はこの「解釈装置」は発動することになるのではないだろうか。

AIもこの解釈装置を作っているのではないだろうか。

でじたる・だぶる

近未来のAIは「デジタル・ダブル」だと日経サイエンスでP.ドミンゴスというワシントン大学の先生が叫んでいる。

理解した内容は、AIの進化によって殺人ロボットやロボットの支配者が現れるという未来を想像してもそんなことは起こらない。それよりも各個人の分身(アバター)が本人に近い思考や感覚も持つようになる。ある意思決定の場面でその分身にシミュレーションさせてその結果を参考に意思決定すれば、失敗は少なくなる。仕事なら有能な秘書として使えるので効率が格段に上がる。旅行や出張が面倒なら分身を派遣して、旅行感覚を味わえるし、出張先のしごともこなせる。ということでAIは想像以上の新しい世界をもたらす可能性がある。とシンギュラリティと正反対のバラ色の世界である。

ここでいくつか疑問がある。本人(本体)と分身(アバター)の自己同一性はどうするのか?個人が同時に違う場所に存在することになるのか(統合失調症)。本人が生物学的に死んだあと分身はどうなるのか(現在のWeb上の消えないデータ問題)。今現在のAIが持っている「縦割りの対応」をどう統合するのか(これは「マスターアルゴリズム」で解決するらしい)

シンギュラリティを心配するよりデジタル・ダブルを考えた方がストレスはなくなる。AIの進化、浸透はヒトの脳の進化にも大きく影響しそうである。前頭前野がより複雑豊富になる突然変異がゲーマーの脳(シナプスのDNA)の中で起きているかも。100年後の人類は、現在の我々を新しい種として分類しているかも。

日経サイエンス2018.12

ネット通販(Amazon)に背徳のにおい

先日のネット通販タスクのインタビューからの妄想。

2人とも主婦、1人は30代で子供2人の専業主婦、1人は50代で成人の子供1人でフルタイムで仕事している。2人ともネット通販、店頭の両方を利用している。店頭販売の快楽は複数店舗(スパー)を訪れないと得られないとの知見を得たことは先日述べた。今回はネット通販の快楽について2人の会話から発想、連想したことを書く。

専業主婦は子供が寝静まってからPCで楽天で買い物する。楽天のポイント15倍に合わせて買物メモを作る一方、インスタを駆使して子供の服や自分のものを検索する。働いている主婦は寝る前にネットで買い物する。気になる商品があると明日仕事があるのに睡眠時間を削ってしまう。2人に共通するのは、普段、あまり買わないものの検索を始めると買物を忘れて検索そのものに没入してしまう。「さっきのサイトのいいものがあった」と気づいても「もどろう」という気持ちがほとんどなくなり、先へ先へと進んでいき、最終的には「もう、寝よう」となるとのこと。

この時、無駄な時間を過ごしたという感覚はなく、弱いものだが充実感があるそうだ。この充実感をいろいろ想像してみる。基本には買い物しなかった、無駄な出費をしなくてよかった、との保証感覚がありそうだ。次は、自分の好きなことを自分のためだけに行ったという占有感(他のほとんどの行動は家族のため?)誰にも見られていなかったという秘密感(店頭購入では少なくとも店員の視線がある)遠くまで行ったという旅行感(最近は旅行にも行ってないな)など、私的に完結した世界を体験したした充実感ではなかろうか。

こういった迷宮のようなECサイトをつくるのも面白いのではないか。儲からないだろうが。そこでふと思ったのが「アマゾン」というネーミング。ジャングルに迷い込んだ買い物客は道を失い、帰って来れない、アマゾンの餌食になってしまう。まあ、この2人は楽天市場ファンではあったが。

理解はめんどう、私は感じたい!

これもネット通販のタスクのインタビューでの発見。

ランキングは長いリコメンドより役に立つ。はちみつを買う前提で楽天市場を検索中に「こういったランキングは一応チェックします」との発言。そのまま信じるわけではないが、どんなものが売れているのか、どんなものを売りたがっているのか、がひと目でわかって便利ということであった。この「どんなものを売りたがっているか」という冷めた反応が面白かった。公職選挙ではあるまいし、ランキングの基準や調査・集計方法なんて気にしていない。どうせ、売り手が売りたいものがランキングのトップかトップ3くらいにあると見抜いている。

これに対してユーザーの感想や評価は、はなから読まない。作為のある情報という認識はランキングと同じだが、ランキングは見ればわかるが、コメントは読まないとわからない。読んでも(何が言いたのか)わからないことが多い、ということであった。検索中はそんな時間の無駄は避けたいのである。

ここから言えることはECサイトは「見て、感じられる」ことが大切で「読んで、理解させよう」としても無駄ということである。タイトルやキャッチコピーの文字情報は「読む」ではなく「見る」行為に分類される。先日のインタビューで「教科書以外の本、雑誌は読んだことない」という対象者を思い出した。新井紀子さんの『AIvs教科書が読めない子供たち』(実は読んでない)ではないが、文章を読んで内容を理解するという行為は結構ハードルが高いのではないか。その対象者が「文章を読むと(写真などで)わかっていたことが、わからなくなる」との発言の衝撃が蘇る。「理解したいのではない、感じたいのだ!」

体感的ボリューム感とネット通販

先日のインタビューでの発見。

いわゆる最寄り品をネット通販で買うというタスクを与えて、普段通りにPCサイトを使ってもらった。対象者は商品として「はちみつ」を選んだ。「今、ちょうど切れそうなので何かいいものがあれば買いたい」という状況であった。リエゾンインタビューだったので隣にもうひとり対象者がいて会話しながら検索した。(完全に日常の状態ではないが他人がいることで自分の行動=検索が客観視できる)

ネット通販で困るのは、買ったことがないものを注文すると届いた時に「あれ、こんなに小さいの?2つ頼めばよかった」ということだという。結構、頻繁に遭遇するらしいが、ネット通販はそういうもの、との納得感ができていたのでネット通販にネガティブになることはないようだった。はちみつは内容量が表示されているので注意深く見ていけばボリュームは確認できるが、観察していてわかったことは、消費者は300gという表示(数値)から実際の現物のはちみつのボリューム感をうまくつかめていない様子であった。生産者や流通に関わっている人なら数値が現実のボリュームと一致するのだろうが生活者はそうではないようである。数値ではなくパッケージの写真でボリュームを想定していた。サイトの商品写真の多くは妙にアップになっていたりするのでボリューム感を大きい方に誤解させる。また、個別の写真なので店頭の棚のように隣の商品と大きさの比較もできない。

そこで便りにしていたのがパッケージの形態、フォルムであった。びんか注ぎ口が長く伸びたビニール製かで分け、びんなら大中小のサイズ感を認知しているし、ビニール製もサイズ感がつかめていた。その時、気づいたのは家庭内のサイズ、容量は数値ではなく容器形状で判断されるているという事実である。「砂糖、大さじ2杯」であり、「大さじは何グラムか、山盛りか、すり切りか」まで問題にするのは料理の素人か、科学実験を職業とする人ぐらいである。

こういった体感的な認知を考慮した製品開発も必要であろう。消費行動の観察は多くのインサイトをもたらす。

定性調査をもっとやりましょう。

買物の快楽

買物は苦痛、義務と感じる場面と買物は楽しい、ストレス解消になると感じる場面がある。今夜の夕飯の材料を買うのはつまらない義務的買い物で、この冬のためにコートを選ぶのは楽しい買物であろう。ただ、このふたつの感覚はきっぱりと分かれることはなく、義務的買物の中にも「楽しさ」の要素は入り込むし、楽しいはずのコート選びもこの冬の寒さ対策、流行に後れたくないとの圧迫感が含まれるはずである。この快楽と義務の感覚のうち、快楽の感覚を刺激するのがマーケティングなのかもしれない。

先日のインタビューで、日常の買物、具体的にはスーパーで買うような商品の買物は楽しいのか、おっくうなのか、実店舗で買う場合とネット通販(ネットスーパーを含む)で買う場合での快楽度の違いについて話してもらった。義務的買物の中にも楽しさ要素を入れ込もうとする傾向はほぼ全員がもっていた。(どうせやらなくてはいけないのだから楽しく)そして、発見があったのだが、実店舗での買物の快楽の前提は日常的に複数のスーパーに行く、行ける環境に住んでいることが必要条件だった。単一店に毎回行くと商品棚や配置を覚えてしまうので新鮮さがない、店舗間の比較ができないので次第につまらなくなるそうだ。そういう人はネット通販に行く。

ネット通販はいろいろなサイトを訪れることができるので店舗(サイト)に飽きることはないが、買うブランドが決まった商品では、ダイレクトにそのブランドをめざして検索するので快楽要素は入り込みずらいそうだ。ネット通販での快楽度が高い商品ジャンルは、まだブランドサーチ状態(自分に合ったブランドを探している)である、購入頻度が低い、いろいろなタイプ種類がある、などの条件があがった。最寄り品ではあるが少し買い回り要素があるということである。そして、ネット通販の快楽度を上げてくれるのはランキング情報がシンプルでよく、リコメンドやユーザー評価のコメントは「よほどでないと見ない」とのことだった。ランキングは数字を見るだけで何を言いたいか理解できるが、文章や写真でのコメントは読まないし、読んでもわからない。ということだった。ECサイト検索中は、文章は読まない、ということである。読み始めるとブランドが決められなくなることが多い。連続的に認知的不協和が生まれる状態かもしれない。すると、最終的にはそのサイトから逃げ出すことになる。しかもこの傾向は公式サイトで発生しやすく、インスタなどの私的(パーソナル)なサイトでは発生率が低くなる。SNSでは、同じ消費者としての共感的態度が準備されているのだろう。

マーケティングリサーチとAI

AI一般ではなく、マーケティングリサーチとAIという視点で AIを考えてみた。(これは第14回アウラ・コキリコセミナーでしゃべった内容である。知識不足や間違いが多いと思う)

MRにとってのどかな時代

データマイニングの時代

ビッグデータの時代

AIの時代

の4期に分けてみた。

「のどかな時代」のマーケティングリサーチは、クロス集計が主流で、特殊な解析方法として多変量解析があった。(今でも両方顕在である)この多変量解析の考え方と今のAIは似ているようだが全然違う。この「のどかな時代」の特徴は、解析手法よりもデータ収集方法にあった。この時代は、データを「時間と人とカネ」をかけて取りに行く必要があり、このデータを取りに行く行為をマーケティングリサーチと言って過言ではなかった。金と時間と人をかけるので、サンプルサイズによって費用が大きく違い、1000サンプルと500サンプルではほぼ倍の費用になり、定性調査の場合はグループ数で費用が増えていった。データは合計、平均、最大・最小値、最頻値、中央値、比率だけで、これに属性、デモ特性などをかけてクロス表を作って分析していた。クロスも三重クロスをすることはまれで、それでもセルのサンプル数がゼロになることが多かった。多変量解析の使い方は、主成分分析、因子分析で出てきた軸でクラスターに分け、クラスターのプロファイリングというパターンが多かった気がする。これは、セグメンテーション、ターゲティングのプロセスで、AIの流れとはだいぶ違っていた。また、学術分野のように有意差(いわゆるp値)が問題になるような場面もほとんどなかった。とくにネットリサーチが主流になってからは有意性は問題になっていない。MRでは、有意性よりは、集計されたデータの比較で解釈することが普通である。ブランド認知率の絶対的数値よりも東京と大阪の認知率の差、男性と女性での差に注目した方がマーケティングの知見は得やすかったといえる。

のどかな時代にショック与えたのはPOSデータであろう。データ量が一挙にゼロふたつくらい増えたのである。クロス集計の世界ではない。そこで出てきたのがデータマイニングである。(もちろん、MRの中からではなく周辺分野から出てきたものである)最初にPOSデータを見た時はびっくりで、まずマシンの集計時間が膨大(費用も増える)になることが頭痛のタネだった。レコード数(量)は巨大だが分析に使える属性データがほとんどない状態だった。初期のPOSデータは店舗属性もなかっただけでなく店舗別でもなかった記憶がある。まして、購買者データなどひとつもなかった。このデータをテキストマイニングした結果が有名な(そうでもないか)紙おむつとビールの併売率が最も高かったという話である。その後、ビールと紙おむつを関連陳列したスーパーがあるという話は聞いていないので、話だけで終わった分析なのであろう。

今は、ECサイトのデータがPOSデータより巨大で、このWebサイトのデータ分析のことをビッグデータ分析と言い始めたのではないか思う。毎分毎秒自動的?に集まってくるデータで、そんなところに改めて質問文を作って新たにデータを取りに行くという発想は生まれない。データを取りに行くMRではなく、集まったものすごい大量のデータを大量のデータのまま分析すれば新しい知見が得られるというのがビッグデータの考え方である。

データを基軸にMRとビッグデータ分析を見てきた。AIにもビッグデータは必要だがビッグデータ分析がそのままAIにはつながらない。AIの発想は、コンピュータを単なる計算機から「考えるコンピュータ」にしたいとの意思があった。AIというコトバは1956年のダートマス会議が最初らしい。その後何回かのブームがあって、今は第三次のAIブームと言われている。第三次の特徴は機械学習強化学習ディープラーニングらしい。パーセプトロンニューラルネットワークは、図解を見るとなんとなく分かった気がするが実のところは理解できていない。ニューラルネットワークを何層も重ねているのがディープラーニングということでいいと思うが、そこには過学習というボトルネックがあるということである。もうひとつ、シンギュラリティがあり、機械に奪われる職業とか機械に支配される人間みたいな恐怖マーケティングがある。MRでいえば、あるブランドの来季の販促案をAIに入れるとその効果とコストが計算される。このAIに食わせるデータを収集するのがMRの仕事になるが、その時はおそらくデータを収集するAIが開発されていて、めでたくMRという仕事・職業はなくなる。これが究極のAIだが、たぶん、自分が生きていいる間はできないだろう。

AIは概念から実装の段階に入っているが、これを実現する背景には圧倒的なコンピュータパワーの進化とソフトウェア(ディープラーニング)の進化がある。しかし、世の中の動き全てをAIがコントロールする状況は想像できない。現在のMRが担っているスモールデータの収集と分析はこれからも必要であろうと考えている。AIとMRは流れの違う川で、どこかで合流する地点はまだ見えていない。

AIの実装は特に中国で進んでいるようで、99%の精度で指名手配犯を判別できるのシステムができ、警察官がこのメガネをかけて見れば、群衆のなかから指名手配犯を識別できるらしい。個人情報やプライバシーの考え方もAI普及のために解決すべき課題である。完全自動運転での事故の責任、保険の問題もアポリアに見える。 

ポストAIの時代に戻して考えると、MRの世界では定性調査の役割が非常に重要になってくると考える。入力層、隠れ層、出力層で言うと、入力層はインタビューそのものと発言録がインプットされ、隠れ層でマーケティング知識や人間の行動特性でウェイトづけられ、しかるべき結論がアウトプットされるというプロセスで今も定性の分析は行われている。その過程で誤差(おかしい!)があれば、隠れ層にまで戻って分析し直せる。このプロセスは定量調査では取りにくい。

ポストAI時代は定性調査の復活、ということでいいだろう?