マーケティングリサーチとAI

AI一般ではなく、マーケティングリサーチとAIという視点で AIを考えてみた。(これは第14回アウラ・コキリコセミナーでしゃべった内容である。知識不足や間違いが多いと思う)

MRにとってのどかな時代

データマイニングの時代

ビッグデータの時代

AIの時代

の4期に分けてみた。

「のどかな時代」のマーケティングリサーチは、クロス集計が主流で、特殊な解析方法として多変量解析があった。(今でも両方顕在である)この多変量解析の考え方と今のAIは似ているようだが全然違う。この「のどかな時代」の特徴は、解析手法よりもデータ収集方法にあった。この時代は、データを「時間と人とカネ」をかけて取りに行く必要があり、このデータを取りに行く行為をマーケティングリサーチと言って過言ではなかった。金と時間と人をかけるので、サンプルサイズによって費用が大きく違い、1000サンプルと500サンプルではほぼ倍の費用になり、定性調査の場合はグループ数で費用が増えていった。データは合計、平均、最大・最小値、最頻値、中央値、比率だけで、これに属性、デモ特性などをかけてクロス表を作って分析していた。クロスも三重クロスをすることはまれで、それでもセルのサンプル数がゼロになることが多かった。多変量解析の使い方は、主成分分析、因子分析で出てきた軸でクラスターに分け、クラスターのプロファイリングというパターンが多かった気がする。これは、セグメンテーション、ターゲティングのプロセスで、AIの流れとはだいぶ違っていた。また、学術分野のように有意差(いわゆるp値)が問題になるような場面もほとんどなかった。とくにネットリサーチが主流になってからは有意性は問題になっていない。MRでは、有意性よりは、集計されたデータの比較で解釈することが普通である。ブランド認知率の絶対的数値よりも東京と大阪の認知率の差、男性と女性での差に注目した方がマーケティングの知見は得やすかったといえる。

のどかな時代にショック与えたのはPOSデータであろう。データ量が一挙にゼロふたつくらい増えたのである。クロス集計の世界ではない。そこで出てきたのがデータマイニングである。(もちろん、MRの中からではなく周辺分野から出てきたものである)最初にPOSデータを見た時はびっくりで、まずマシンの集計時間が膨大(費用も増える)になることが頭痛のタネだった。レコード数(量)は巨大だが分析に使える属性データがほとんどない状態だった。初期のPOSデータは店舗属性もなかっただけでなく店舗別でもなかった記憶がある。まして、購買者データなどひとつもなかった。このデータをテキストマイニングした結果が有名な(そうでもないか)紙おむつとビールの併売率が最も高かったという話である。その後、ビールと紙おむつを関連陳列したスーパーがあるという話は聞いていないので、話だけで終わった分析なのであろう。

今は、ECサイトのデータがPOSデータより巨大で、このWebサイトのデータ分析のことをビッグデータ分析と言い始めたのではないか思う。毎分毎秒自動的?に集まってくるデータで、そんなところに改めて質問文を作って新たにデータを取りに行くという発想は生まれない。データを取りに行くMRではなく、集まったものすごい大量のデータを大量のデータのまま分析すれば新しい知見が得られるというのがビッグデータの考え方である。

データを基軸にMRとビッグデータ分析を見てきた。AIにもビッグデータは必要だがビッグデータ分析がそのままAIにはつながらない。AIの発想は、コンピュータを単なる計算機から「考えるコンピュータ」にしたいとの意思があった。AIというコトバは1956年のダートマス会議が最初らしい。その後何回かのブームがあって、今は第三次のAIブームと言われている。第三次の特徴は機械学習強化学習ディープラーニングらしい。パーセプトロンニューラルネットワークは、図解を見るとなんとなく分かった気がするが実のところは理解できていない。ニューラルネットワークを何層も重ねているのがディープラーニングということでいいと思うが、そこには過学習というボトルネックがあるということである。もうひとつ、シンギュラリティがあり、機械に奪われる職業とか機械に支配される人間みたいな恐怖マーケティングがある。MRでいえば、あるブランドの来季の販促案をAIに入れるとその効果とコストが計算される。このAIに食わせるデータを収集するのがMRの仕事になるが、その時はおそらくデータを収集するAIが開発されていて、めでたくMRという仕事・職業はなくなる。これが究極のAIだが、たぶん、自分が生きていいる間はできないだろう。

AIは概念から実装の段階に入っているが、これを実現する背景には圧倒的なコンピュータパワーの進化とソフトウェア(ディープラーニング)の進化がある。しかし、世の中の動き全てをAIがコントロールする状況は想像できない。現在のMRが担っているスモールデータの収集と分析はこれからも必要であろうと考えている。AIとMRは流れの違う川で、どこかで合流する地点はまだ見えていない。

AIの実装は特に中国で進んでいるようで、99%の精度で指名手配犯を判別できるのシステムができ、警察官がこのメガネをかけて見れば、群衆のなかから指名手配犯を識別できるらしい。個人情報やプライバシーの考え方もAI普及のために解決すべき課題である。完全自動運転での事故の責任、保険の問題もアポリアに見える。 

ポストAIの時代に戻して考えると、MRの世界では定性調査の役割が非常に重要になってくると考える。入力層、隠れ層、出力層で言うと、入力層はインタビューそのものと発言録がインプットされ、隠れ層でマーケティング知識や人間の行動特性でウェイトづけられ、しかるべき結論がアウトプットされるというプロセスで今も定性の分析は行われている。その過程で誤差(おかしい!)があれば、隠れ層にまで戻って分析し直せる。このプロセスは定量調査では取りにくい。

ポストAI時代は定性調査の復活、ということでいいだろう?

パーケージデザインの機能

パッケージには中身(製品)の保存、保護、運搬しやすさ、などの実質的な機能が期待される一方で、マーケティング的には視認性、識別性、対競合優位性、表現性(製品ジャンルのデザインプロトコルとの整合性)などの機能が要求される。視認性と識別性は似た機能である。店頭の棚で一瞬のウチに「それだとわかる」必要があるし、他ブランドと「違う」とわかる必要がある。表現性の中は、製品(中身)を「正しく」連想させる機能とそれが、競合ブランドよりも自分の嗜好に合うことを納得させないといけない。すると当然、その商品ジャンルのデザインプロトコルに従う必要とそれに埋もれてしまわない個性が要求される。

リサーチでは、インパクト、わかりやすさ、共感性、競合差別性などの項目を全体のカラーリング、最も目立つカラー、最も強い線や図形、アイコン、ネーミングロゴデザインとキャッチコピーなどの文字表現に分解して調査し、最後に全体的な評価、つまり、そのブランドの「デザインアイデンティティは何か」をとるというプロセスで分析される。実際のデザインを提示して上記項目を質問していけば、パッケージデザインの調査はできる。

パッケージデザインの調査で既存ブランドのデザインのどの部分が識別性、差別性、共感性のそれぞれに寄与しているかがテーマ(目的)になることがある。この時、調査方法のひとつとしてパッケージの絵をフリーハンドで書かせる事がある。結果はほとんど人が何も描けない。当ブランドのヘビーユーザーで今日も買ったという人でも描けない。ブランド名をカタカナ・ひらがな・ローマ字で書き、全体のフォルム(輪郭)を自信なさげに描くだけである。これは一般的なことであるらしい。誰も千円札の絵は描けない。1000円という数値と人物が誰かということ富士山の絵があった程度である。しかし、実際の支払いで千円札と五千円札を間違えることはない。(老人は間違える?)お札のデザインは識別性だけでなく偽造防止目的で複雑にデザインされていることも影響しているだろうが、シンプルなデザインの日常品でも絵は描けない。

では日常的に何を頼りにして識別して選択しているのか。コンビニの棚から競合品ではなく自分のブランドを選ぶ時、じっくりパッケージを見ている人はいない。ほぼ、自動的といえるタイミングで選んでいる。「どうやってとっているのですか?」とその場で質問しても「いつもそうしてる」以外の答えはなく、「パッケージデザインのどの部分に注目しているか」と聞いてもネーミングしか出てこない。実際のパッケージを見せて「どこで識別している?」と聞いてもネーミング以外は上がってこない。パッケージデザインの調査ではあれだけ詳しかった人が、ほぼ盲目状態になってしまう。

商品選択にパッケージデザインは何も貢献していないわけはないわけで、仮説的にはそれぞれのブランドのパッケージデザインの「暗黙知」的認知が働いていると考えられる。この暗黙知を探るのが今回のセミナーのテーマです。

 

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パッケージデザインで元気になる

最近、言われなくなった気がするが、日本の消費財のパッケージデザインは世界最高水準であるとの言説がある。国際パッケージデザインのコンクールでの受賞という話も聞かなくなった気がする。これも自分の感覚だが最近の新製品のパッケージデザインでも凝ったものは少ない。中身を十分に表現すればよいとのポリシーが見え隠れする。(最も新製品の数そのものが減っている)パッケージデザインで何かを表現しようとするより中身(実質)で勝負ということだろうか。パッケージデザインでいくら気をひこうとしてもSNS等で中身の評価・評判がすぐに伝わってしまうという状況も影響していそうである。(風説化することもある)国内市場の元気のなさも華やかなパッケージデザインが必要とされない状況の原因かも知れない。過剰包装、パッケージを買うのか中身を買うのかわからない、などと批判されていた時代が懐かしくなる。パッケージやラッピングで演出できた価値もあったはずだし、貧しくなる市場でも必要で重要な価値だと思う。

では、成長の止まった元気のない市場でのパッケージデザインの価値をどう生み出すかを考える。思いつくのは、成熟、質素、ミニマル、シンプル、身の丈にあった、ていねいな、質実剛健、など辛気臭いものばかりになる。明るく元気に成長が期待できるようなワードは出てこない。高度成長は2度と来ないことは確かだし、人口減少も止めることはできそうもない。そうしたなかで消費を元気づけるパッケージデザインは何か考えて行きたい。19日のセミナーではそこまでできないが、パッケージデザインの暗黙知を追求していきたい。

 

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ラッピングマーケティングⅡ

トヨタソフトバンクの提携発表はショッキングであった。解説は、自動運転技術が完成したときの自動車メーカーの立ち位置、自動運転を完成させるための情報技術の獲得などとトヨタの事情寄りのものが多かった印象である。一方、この提携はソフトバンクにとっては配車サービス事業の日本での立ち上げに限定されるのではないか、ソフトバンクに自動運転技術の蓄積はあるのだろうか、画期的な電池技術を持っているのかが自分の疑問である。自動運転のレベル5が完成して配車サービスと連動し、その時のクルマが電動モーター(エンジン)である状況が生まれたときの自動車産業がどうなるかは全く想像できない。インターネット初期(SNS初期)に全部がつながることで完全な民主主義が成立するとの夢と「SNSは馬鹿ばかり、炎上上等」の現状を考えると、移動・輸送の完璧効率化社会ではなく、多分、新しい地獄が待っているのかも知れない。

ここで、ラッピングマーケティングに飛躍する。

今回の提携は再セグメンテーション、リポジショニングで語られるのだろう。自動車産業というセグメントで生きていられなくなりそうな事態が予想され、生態系の見直しから、捕食者・非捕食者関係のポジショニングもやり直すというマーケティング作業である。この時、セグメンテーションやポジショニングのやり直しと捉えるよりラッピングと考えた方がしっくり来るのではなかろうか。自動車産業の構成要素をひとつつみにラピングしていたがそこにITや電池産業も入れてみて全体の包み込み状況を確認する、程度のことではあるが、ラッピングの方が気軽に簡単にできるし、ラッピング全体を見通すこともできる。

このラッピング用具は風呂敷をイメージしたほうが良い。どんな形のものも大小が大きく異なるものも一緒に包込める。1枚の風呂敷に入り切らなければ、それは詰め込みすぎでラッピングの基本からズレているので有効な戦略は産まない。風呂敷包みが小さすぎれば、ラッピングもれの要素があるという判断にもなる。MBA的厳密なセグメンテーション、ポジショニングよりも冗長性のあるラッピング概念は今回の提携のような場面では有効ではなかろうか。

ポスト平成のマーケティングはこの冗長性の処理が重要になってくる。

ラッピングマーケティング

前々回の記事にあるように最近、パッケージングについて考えている。パッケージングは重要なマーケティング要素である。典型は一般名称であり、湧き水、水道水とほぼ無料で手に入る水をネーミングし、きれいにデザインし、個別にパッケージングすることでブランド化できた例である。中身は悪く(毒で)なければよい、名前とキャッチコピー、インパクトのある表面デザイン、大量の広告投下でブランディングが完了した。

ところが、それが、ネット通販オンリーの時代が来ればほとんどの商品のパッケージングは不要になる。(だろう)醤油はもちろん、お菓子、洗剤などの消費財は、容器は必要だがパッケージはいらなくなる。趣味性、嗜好性の強い商品、パッケージング価値が残るがその数は少ないと予想する。これを前回は「量り売り」の復活と考えたが、もっと先進的にパッケージングの新しい価値が始まると考えてみたい。

そのひとつの仮説として、ラッピングマーケティングを考える。パッケージングとラッピングの違いをいくつかあげる。コトバ遊び的には「パッケージをラッピングできるが、ラッピングされたものをパッケージにすることはない」森永ミルクキャラメルはひとつひとつラップ(包装)されたものを外箱でパッケージングしているといえるが、ここではラッピングと個包装は別概念と考える。パッケージは規格的だが、ラッピングは自由で個性的。パッケージングされた商品は陳列しやすいがラッピングは陳列向きではない。パッケージングは生産部門で行われるが、ラッピングは流通段階で行われる。パッケージングは中身の保護・保存機能が高いがラッピングは弱い。

ラッピングマーケティングはネットとの親和性が高い。ブランディングはサイト上で自由に行い、流通過程、使用場面ではネーミングとの連動性だけあればよい。マーケティング」の主役、主戦場はWeb上になる。

インスタは無文字文化をめざす

先日、インタビューの対象として会話した女性から衝撃的な発言があった。「教科書以外の本を読んだことはほとんどない。雑誌なんて買ったことがない。自分の記録が載る陸上の雑誌は買うが、これも読むことはない」このあたりは、そうだろうな、と納得していたのだが「SNSはほぼインスタだけ、写真を次々に見ていくのは楽しいし、その中から買うものを見つけることもある。でもインスタのキャプションは読まない。写真を見ればわかるが、それに添えられた文章を読むとわかっていたこともわからなくなる」それに対して法学部の4年生という子も「試験の時以外は六法全書スマホで見るのですコロールして全文を読むことは少ないかも知れない」と同調した。

なかなかうまく理解出来ない。紙に印刷した文章、新聞雑誌、単行本を読まない、買わない人が若者中心に増えていることは実感できていたが、文章が理解を妨げる、理解を混乱させると聞いて、しかも奇をてらっている様子もないので、確かに文章を読むのが苦手というか文章を読む訓練をうけて来なかったことは想定できる。会話は支障なく複雑な会話もできるので脳に問題があるとも思えない。

そこで、文章で対象を理解することと絵(写真)で対象を理解することの差は何かを考えることになった。キャパの「崩れ落ちる兵士」は有名である。1枚の写真とキャプション(タイトル)だけで反ファシズム反戦の象徴(意味)たり得たのである。ただこれは写真だけでは達成されず、それを解釈するジャーナリズムのおしゃべりが必要だった。いまWikiをみてみたら、この写真がキャパの撮影ではなく、戦闘シーンでもない(だから、この兵士はその時死んではいない)という文章がえんえんと続いていた。文章を読むと意味がわからなくなる好例だが、彼女が言った「文章をよむとわからなくなる」とは違うだろう。もし、キャパの時代にインスタがあったと、逆に今の時代にキャパがインスタをやっていたとして、この写真の提示のされ方は、多分、その現場で撮影された写真多数を場所と日時の情報(コトバ)だけでアップしたはずである。それを見た彼女が何かを感じ、理解して、写真の意味やメッセージを考えるだろうか。おそらくはそうならず、キャパが描いたかも知れない説明文章を読んだとしても意味やメッセージは伝わらないということなのである。

インスタは認知の作用機序を変更してしまい、文章はもとよりコトバも無効にしてしまうのだろうか。コトバがないと認知も成立しないのでそれはないとして、文字・文章を無効化する力を秘めているかも知れない。インスタは無文字文化をめざす。

「量り売り」とパッケージング価値

パッケージング商品とノンパッケージング商品がある。昔はノンパッケージング商品は「計り売り(量り売り)」と言われたが、現在の音楽ソフトの売り方(買い方)も確かに「量り売り」の印象はある。ネットからDLできる商品はパッケージング不要であるが、パッケージングされてない商品は従来のマーケティングの考え方では把握しきれずこぼれる部分が出てくるのではと考えている。

パッケージの構成要素の中でネーミングは最重要でネーミングされずパッケージングされている商品はほとんどない。ネーミングはパッケージ表面に表示され、広告宣伝されて消費者に認知される。認知がない限りは売れることはない。現代の量り売り商品は広告宣伝(口コミ、インフルエンス)だけでネーミングを認知させ購入に結び付けなくてはいけない。店頭(サイト上)でもパッケージを示すことはなくネーミングとキャッチコピーと宣伝画像だけでクリックを促す。このサイト上の告知コンテンツがパッケージと言えば言えるが、当然、「さわる」ことはできない。パッケージング価値の中でこの「さわれる」ことは重要だと思うが、その点はまた考えたい。

このWeb上だけで告知・販売が完結する「量り売り」商品のパッケージングのやり方を考える、提案することは新たなマーケティング課題になるのではないかと愚行している。パッケージング価値をトータルで考え直してみたい。