調査協力依頼の挨拶状

社会学学会のレポートで、ネットリサーチモニターのsatisfice回答者問題が取り上げられた。回答者全体の5%くらいいたということで分析結果に影響を与えたとなっている。優良回答者に対してsatisficeは、早く終わらせるために質問文は読まない、選択回答肢も「適当に」チェックする回答者のことである。(噂ではあるが、ネットリサーチ回答プログラムを作って文字通りsatisficeする輩もいるとのこと)デタラメに回答していても論理チェックにかからなければ、正常データとして扱われる。

大昔、訪問面接調査が主流のときは、調査員と対面するのでデタラメ回答は少なかったというよりなかった。satisficeより問題だったのは調査拒否や不在で、回収率が6割を切るようになるとどれだけ精度の良い回答票を集めても「歪み」が大きくなってしまう。回収率を確保するためにサンプリング作業のあとは実査のまえに必ず「調査協力依頼状」を郵送していた。挨拶のあと市場調査の重要性・公共性を訴え、あなたにお願いするのは無作為抽出という方法でたまたま当たっただけで他意はない、回答内容は個別に扱うことはなく全体集計する、最後に味噌汁の味見と同じで少ない数でも全体を推計できるとサイド意義を訴えて終わる挨拶状を送ってから、調査員が訪問していた。謝礼はあったが、謝礼と言えるほどのものではなかった。対象者の回答・調査協力のインセンティブとして社会性を強調していた訳である。個々の対象者を納得させていたかは怪しいが、こういった意義を訴求することは調査員を始め調査スタッフのモラル維持には役立っていた。

ネットリサーチで同じようなことをやっても意味はないが、satisfice排除の取り組みはできるし、やるべきではないだろうか。IDごとの回答パターンを記録しておけばAIまで行かずともsatisficeは判別できると思う。クライアント側としては回収数のプレッシャーだけでなくクリーンデータの要望をだすべきであろう。それには集計表だけでなく原票(ローデータ)を見る、読むことが大切である。

でもカネにならないから誰もやらないよね。

ワークショップFGI Ⅱ

「思わぬ発見」のないまま終わるFGI。

わかっている(いた)ことの確認で終わるFGIという批判は相変わらずです。
マーケティングリサーチである限り、わかっていたこと(仮説)が消費者の「生の声」で確認(検証)できる機能はそれだけでも重要です。
ただ、FGIは定量的検証にならないこともあって、この不満が大きくなります。 
FGIに固有(定量調査にはない)の「思わぬ発見」が少ない原因として、
・質問☓回答形式にこだわりすぎるインタビューフロー
・会話が脱線しそうになるとすぐに軌道修正するモデレーション
の2つが大きいと考えています。
自由な会話、自由な発想を縛っていては「新しい発見」は生まれません。

そこで、FGI対象者をワークショップ参加者にすることを考えています。 
対象者条件を何度も確認され、受付で身分証の提示まで求められてFGIに参加し、始まると 「皆さんで自由に話して欲しい」といいつつ、いろいろと「ツッコミ」が入る状況では、対象者は突拍子もないことを言って非難や嘲笑を受けるのを避けようとします。
発言は、世間常識に外れない無難なものになり、聞いている方も納得性ばかり高くて「意外性」 の少ないFGIになります。
FGI対象者をワークショップ参加者として、自分の「知っていること、考えていること」を総動員してもらい「回答」ではなく、集団で作業をしてもらうことを目指します。

クライアントやモデレーターとしてFGIに参加したことのある人は、会話だけのインタビューより具体物を提示したり何か作業をさせた方がインタビューが活性化するという体験をもっていると思います。
これをもっと徹底させた場面をFGIの中に作るのがワークショップFGIです。
具体的には、FGI対象者に役割変容をお願いします。
モデレーターの質問に「消費者」として回答し、同じように集まった「消費者」達と会話するという役割から 、消費者の立場から離れてプロジェクトメンバーとして「共同作業」をしてもらいます。
そのために、
・テーマ、作業をよく理解してもらう(一般消費者の限界はある)
・開発者の立場に立ってもらう必要はない。消費者の立場から「作り手」の発想をしてもらう
などのモデレーションが必要になります。
これが始まったら、モデレーターもファシリテーターに役割変更します。

「思わぬ発見」「新鮮なインサイト」のあるFGIを目指して実験していきます。

ワークショップFGI

FGIは、
・あるテーマに全員の意識をフォーカスさせ
・参加者全員の自由な発言とお互いの議論を引き出し
その時のマーケティングテーマへの「回答(仮説づくり、仮説検証、新発見)」を導くことを目的に実施されます。
ワークショップは、研修やセミナーのやり方のひとつで
・作業・課題を決めて
・参加者同志、お互いに知識を出し合い、具体的な作業をする
ことで課題への理解を深めたり、参加者の意思統一(共通認識)を得る目的で実施されます。

FGIとワークショップはどこが似ているか
・それほど関係性の強くない少人数の集団を「強制的」に作る
・集団内は平等に扱われ、全員参加が前提
・リーダー(モデレーター、ファシリテーター)はいるが、調整役
などがFGIとワークショップの共通点です。
FGIは分析・報告書を最終アウトプットとするリサーチの方法論に従いますが、ワークショップの多くは 客観的報告書よりも参加者の「体験」そのものを重視します。ワークの結果、新しい企画が生まれる ことはありますが、多くの場合は「副産物」です。
アプローチの方向性は違うものの、FGIもワークショップも参加者の間にグループダイナミックスが働い て「思わぬ発見」があるところが似ています。
この「思わぬ発見」を目指してFGI対象者をワークショップ参加者に変身させるFGIをトライします。

リエゾンインタビュー

18日のアウラ・コキリコセミナーでリエゾンインタビューにトライした。テーマは野菜飲料のカゴメのユーザーブランドストーリーを描くとした。

リエゾンインタビューは1on1インタビューの発展形であるし、ペアインタビューの発展形でもある。1on1のモデレーターと対象者の対峙関係を和らげ、その場でできたペアの関係性をインタビューに活用するというやり方である。1on1の欠点として対象者との会話が集中しすぎてアソビがなくなり、最終的になんとなくギクシャクした関係、モデレーターにとっては「もうこれ以上この人にインタビューしても得ることはないな」とあきらめを、対象者には「もう、話すことはないし、この会話の目的がいまいち飲み込めない、欲求不満だな」との心理状態も持たせてしまう状況になる事がある。そこまでこじれなくてもお互いに「合わない、合わなかった」印象が残る。モデレータの力量の問題もあろうが、1対1の関係性から抜け出せないことも原因であろう。冗談などで他者視点を持ち込めば改善することもある。

そこで、最初から他者視点をセットして1on1インタビューを実施するのがリエゾンインタビューである。野菜ジュースのエクストリームユーザーであるとの共通点だけを頼りに即興のペアを作ってもらい、2人の会話をモデレーターは「聞くだけ」の立場で参加する。2人の関係性は最初はもちろんギクシャクするがお互いの自己紹介が終わる頃は双方向の会話がはじまる。モデレーターは時々、テーマの方向性を示すだけで対象者2人の会話を進行させる。発音しなかった子音が母音が連続することで現れるリエゾンを自然の形でおこしてもらう。本来的にはそれぞれを1on1で実施し、その後リエゾンインタビューに参加してもらう2段階を組まないと検証はできないが、リエゾン効果はあったと考えている。モデレーターとの1on1では定型的な質問になってしまう部分が、対象者同志なら自然な形で会話がからみあって螺旋状の盛り上がりが観察できた。

このリエゾンインタビューで「ユーザーブランドストーリー」を描くことは道半ばでおわった。ユーザーブランドストーリーとは、メーカーサイドのブランディング施策を換骨奪胎して独自で独特のブランドストリーを作った消費者(ユーザー)こそがエクストリームユーザーであると定義づけている。こういった内的ストーリーはモデレータと対象者の対峙関係では語られづらい。それを臨時のペアを作り、そこでの関係性を作り上げる過程を設けた方が語られやすいと考えている。このユーザーブランドストーリーを記述することで、その後のブランディング戦略が多層的になると考えている。

実験を続けたい。

 

電通的なものの黄昏

思いつきで何のエビデンスもないが、タイトルのことを考え始めている。本来は昭和(戦後)的なものが高度成長期・バブル期でピークを打ち、平成の30年間で長いダウントレンドを示し、平成の終焉でとどめを刺された。ということであろう思う。

電通的という内容は、鬼十訓にある「仕事は死んでも離すな」に象徴されていると思っている。電通の企画書はプレゼン当日まで徹夜で書き直され、推敲されて完成していくらしい。完成は最後の最後まで引き延ばされ、改良なのか改悪なのかは問わずギリギリまで追い込んだものでないといけなかったと聞く。これが過労死まで発展する残業の強制(自主的なのだが)になっていた。

もうひとつの電通的は政治力の使い方である。ビジネスには政治的要素があるとはいえ、「電通に逆らうとあとでとんでもない徹底的な嫌がらせを受ける」との神話・都市伝説が生まれるくらいであった。このような闇の力をもっていると勝手に相手が思い込んでいただけだが、それを巧みに利用する最高度の政治性があったらしい。

みっつめが男性原理の徹底である。女性はアシスタントであり、徹夜で仕事する男を支える「会社での妻」だったらしい。活躍したい女性は。女性だけの広告会社を作らされていたとのことである。これは単なるうわさだが社内不倫も多かったと聞いた。

この3つの電通的なことが平成末期で完全否定されてきている。働き方改革を待つまでもなく働き過ぎは避けるべきとの考えが浸透してきている。過労死事件以後は残業禁止になったらしいが。鬼十訓が死んだとは聞いていない。電通の政治力神話も最近は聞かない。ハリルホジッチ問題も電通とキリンが後ろで糸を引く構図が語られことがあるが、ハリルホジッチ自身は反論の容易があるらしい。そして電通から離れて長いし、短期間しか電通に在籍していないがアラーキーmetoo問題も電通的なものの終焉を象徴していると思う。個(私)を深堀していってその先に一般性が作れれば芸術としての厚みが出ると思うが、アラーキーの「私写真」にはそれがない。昭和であれば評価されたが平成末期では通用しなくなってきている。

この電通的なものの衰退を促したのがネット以外に何かありそうだがよくわからない。インターネットはテレビ広告のパワーをそぎ、それが電通パワーもそいだと考えていいのだろう。ネットは個人や会社固有の企画力(企画書力)も平準化してしまった。コピペで新人もベテランと同じ企画書が書ける(体裁だけだが)時代に徹夜で推敲するのは自己満足、パワハラの原因になってしまった。さらにネットはふつうの人の「告発」が容易になって、しかも政治力で握りつぶすことができずらくしたといえる。SNSによって私的な男女関係がいつ明るみに出るかわからなくなってきている。冷めた後どういう行動にでるかまで考えて付き合う男女などいない。

ネットによる「つながり」が電通的なものを終わらせる。

だけでいいのかもっと考えてみよう。

女性原理(母性原理)が支配するマーケティング

今、ポスト平成のマーケティングをテーマにして少数人数で研究し始めている。とりあえず、平成時代のマーケティングの特徴を検討している。平成時代は、戦後高度成長のピークとしてのバブルの崩壊直前に始まっている。平成元年には三菱地所がNYのロックフェラーセンターを買収したりしていた。このバブルはすぐに崩壊し、日本経済はゆっくりと坂を転げ落ちていく。最初は失われた10年とかで回復への期待はあったが、それが20年になり、最近は「低成長時代」が共通認識になり「復活」はあり得ない、期待できないとなっている。

全体市場は停滞感に包まれているが、マーケティング的には、ネットが生活の中に急激に入り込んできて、深く浸透したのが平成時代である。1995年は平成7年で、Win95はコンピュータがビジネスだけでなく、日常生活もターゲットにした年である。コンピュータはダウンサイジングと通信との融合(インターネット)で携帯電話からスマートフォンに進化してもはや機械ではなく道具・グッズになっている。B2Cマーケティングのターゲットの一般消費者は「検索」と「比較」の武器を手にした。メーカー側が秘匿できる情報は極めて少なくなり、意図せざるところで自社(製品)情報が流れ始め、時には大きなハブとなってネットワークをものすごい勢いで流れて行く。内容の好悪を確かめるチャンスはない。そして悪い話は良い話の3倍の伝達力をもつというネット以前からあった定説はネットでも適応できてしまい、マーケティングの4Pのひとつプロモーションは常に外部要因を考慮せざるを得なくなっている。メーカー側のコントロール力が制限され始めた平成時代。

インターネット化する消費生活とリアルな消費生活との齟齬も際立ってきた。ネット通販の利便性はヤマト運輸(の配達員)の犠牲によっていたということに気づき、比較サイトを見すぎるあまり購入ボタンをポチできない体験をし、SNSへの何気ない投稿が炎上したりで、ネットとリアルの折り合いをつける術を消費者はまだ会得できていない。テレビの「1対N」であれば大きなNの中に身を隠せた庶民が「N対N」のネットによって裸にされた状況である。これを乗り越える方法がわからないまま、AIの脅威も喧伝され不満や鬱屈を抱えた消費者も多い。

全体市場の停滞の原因のひとつとも言われる人口減少・少子高齢化を実感し始めたのが平成後期であろう。人口ボーナス・人口オーナスが原因と言われるが、どう考えてもそれだけでは説明つかないというか、それは結果に過ぎないのではないか。ここ1、2年は中国に完全に追い抜かれたとの認識も広がり、プライドを失ったり、プライドに固執したりの断片化が進んでいる。全体意識が鬱か双極性の症状を示している。

これらの原因なのか結果なのかわからないが「女性原理(母性原理)」の重視、支配が進んだのも平成マーケティングの特徴ではないか。女性原理や母性原理の表現は安易に使うと問題だが、フェミニズムとは離れて使いたい。戦後民主主義教育もこの流れの中にあったが、低成長・停滞が意識されるようになって際立ってきている。まだ分析不足だが、この女性原理が支配するマーケティングも考えて行きたい。(経済成長を遂げた社会は共通に女性原理マーケティングになると言えるかもしれない)

 

「定性調査はマーケティングのAIになる」少数の法則をみがけ

少数の法則については、過去こんなことを書いている。

http://blog.hatena.ne.jp/auraebisu/auraebisu.hatenablog.com/edit?entry=8599973812277794522

我々はカーネマン・トベルスキーが言う通りシステム1で判断し、意思決定している。さらに物事に因果関係・相関関係をみたがるし、ひいては物語を語りたくなる傾向が強い。このシステム1思考と物語性の2つが少数の法則の原因である。我々の仕事である定性調査はこの少数の法則に従った方法論である。(これと対照なのが「大数の法則」を基礎とする方法論の定量調査である)少数の法則はシステム1の思考なので通常は否定的にとらえられる。反知性的、反科学的、強い偏向性などが批判されやすい。反知性とは「少し考えればおかしい、とわかるだろう」とシステム2の思考で否定されることを信じてしまう愚かしさ。反科学的もシステム2の思考、統計的代表性、再現性を考えれば「そんなことは言えない。単に偶然発生した」ことを信じてしまう宗教性。強い偏向は「それとこれを結びつけて考える」には背後になにか強い信念(イデオロギー性)があるとしか言えないとの批判である。

マーケティングリサーチ(MR)のバックボーンは統計学であり、観測された事象はある確率分布に従う前提でデザインされている。定性調査のデザイン思想は大きく違うのだが、MRのくくりでこの定量調査の考えをそのまま定性調査に持ち込み「少数の法則」批判をされることが多い。デブリーフィングで「こういう(考えの)人が多いんですか?何割くらいいるんですかね?」「今回の結果はたまたまですか?」などの質問がクライアントから出ることが多い。気持ちはわかるが、それを言われても(聞かれても)困るのである。「今回の結果は全体市場の傾向と言えます」と確信をもって断言するが、もちろん証明(検証)はその場でできるわけがない。(検証したければ定量調査をやればよい。と開き直る)このままでは定性調査が日陰の身から出てこれない。

サンプルの少ない定性調査の宿命でる「少数の法則」を徹底することで、その裏側の一般性を獲得できるのではないかと以前から考えている。科学性はどこまで行ってもムリだが一定程度の一般性は獲得できるのではないか。そして、マーケティングは科学である必要はなく、分析結果に限定的な一般性があれば「使える」のである。

では、少数の法則を徹底化方法を考えよう。簡単に言うと、システム1の思考とストーリーテリング能力を磨くことになる。システム1思考の特性は「省エネとスピード」である。仮説構築・データ取得・精細分析のシステム2は、費用と時間がかかる。結論が出たときは状況が変わってしまうことさえある。(ネットリサーチの浸透で省エネ・スピードは相当改善されたが、科学性・再現性と情報の豊かさが毀損されているのでは?)このシステム1の思考を磨くには、マーケティング知識・思考法を常にアップデートすることと、消費者心理の読み込みの訓練の2つが重要である。本を読むことも大切だが、マーケ関連のニュースを自分なりに解釈する(裏を読む。供給側と消費側の真意を推理する)訓練が必須である。ストーリーテリング能力は、マーケティング的に関係なさそうな事象AとBを関連付け、その間をつなぐ納得性の高い物語を考える訓練を重ねることである。さらに、その物語は常にアップデートすることを心がける。安定、安心、定説を捨てる結構ストレスフルな作業になる。(赤の女王)

これを楽しむのが定性リサーチャーである。が、このストレスフルな作業をコンピューターに代替させようとしているのがAIだと解釈している。大量のデータをブチ込んで出てきた答えを施策として実施し、結果を観察すればマーケティングプロセスの輪が閉じる。データ処理のプロセス(モデル)はブラックボックスのままでよい。