人数やブランド数のあれこれ

セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞した。行動経済学は本家の経済学よりもマーケティングに近い。と勝手におもっている。行動経済学は心理学(認知心理学であって行動心理学ではない)の知見を多く取り入れている。そのなかで、人の短期記憶容量の限界として、「マジカルナンバー7±2」というミラーが1957年に提唱した数字がある。正確には7チャンク±2であるから5チャンクから9チャンクになる。この説は荒野の7人、七草、ラッキーセブンなど7という数値の「神秘性?」にも助けられて納得生がいまでも高い。

その後、2001年にネルソン・コーワンが4±2を提唱し、現在はこれが主流になっているようだ。短期記憶の容量限界とは別に「視覚性ワーキングメモリー」の実験からその限界は「4」という報告がある。(Luck&Vogel 1997)視覚性ワーキングメモリーとは、いくつかの図形を瞬間的に提示され、900ミリ秒後に再提示された時、色が変化した図形があるか、それはどれかというテストのことで、人が正確に答えられる数は4つが限界という結果が出ている。このことも合わせるとマジカルナンバーは4がいいような気がしてくる。グループインタビューはグルイン、ももいろクローバーZはももくろなど略語、略称も4文字以内が多いことも4を納得させる理由である。

シーナアイエンガーの「選択の科学」では人が選択しやすいのは6個までの提示で、それ以上になるとプレッシャーから選ばない(買わない)という実験結果がある。また、ディスプレイにリッチ感を出すには6個以上の陳列が必要との実験結果もあるらしい。この6は4±2であるので、マジカルナンバーはやはり4なのであろう。我々もグループインタビューの最適人数は、体験から4人と考えている。

ダンバー数は150(正確には148?)と言われていてフェイスブックも含めて「親しさ」「顔見知り」の数は150人が限界だそうだ。

こういった数字の「魔力・魅力」は積極的に活用したい。

 

ネット通販のラストワンマイル

もう誰かが言っていることだと思うが、昨日半日考えたこと。今、消費と消費者の変化を考えていて、ネット通販の浸透とリアルなテンポはどこまで減るのかを集中的に考えた。アメリカではネット販売に大きくシフトし、Amazonだけでなく小売や製造企業がECシフトしているというニュースがあるが、当然、現実感がない。日本では、佐川急便からヤマト運輸への刺客としてのAmazon一括契約、Amazonとヤマトの契約見直し、Amazonの配送内製化、ヤマトの一般荷物の値上げというニュースになっている。その間、ヤマトのブラック労働も話題になった。

ゲームソフトなどネットだけで、配送・決済が完結しない「モノ」や「サービス」は、どれだけAI化、Web化が進んでも最終的にはモノの運搬という電子ではない実物の動きが必須である。製造者と消費者の間の物流ネットワークがあり、そのネットワーク上を昔は、情報(受発注)も流れていた。そこから情報だけがWebに移行したのに物流までWeb化したかのような誤解が消費者(一部メーカー側)にあったと思う。それを促したのが「配送料無料サービス」である。誰かがフリーランチ代を負担することになり、配送業者と製造業者がそれを負担した。この矛盾が出たのが2017年だと思う。

EC消費がない時代は価格の中に「物流費」がふくめられていた。それは工場から店舗までの運送(陳列)費であり、消費者宅へのラストワンマイルは消費者が負担していた。店舗までの交通費・労力である。徒歩から自家用車まで消費者負担であった。それより前の時代の「御用聞き」の価格には配達代が上乗せされていた。それが価格はそのままか安いのに自宅まで無料で配達してくれ、再配達代も無料となればECに流れるのは当然である。

流通業者も運送業も「ハブ&スポーク」の考え方にもとづいてネットワークを組んでいる。ハブが小売店舗でスポークは消費者の来店だったのが、ハブがAmazonでスポークがヤマト運輸なのだから、ECは消費者負担が少ない。フリーランチを食べていたのはAmazonではなく消費者だったわけである。

このラストワンマイルをドローンで支配しようというのがAmazonの戦略らしいが、この泥臭い最期の1マイルは電子のナットワーク作りとは根本的に違う。そんなことamazonも先刻承知だが。

協働インタビューの試み

定性調査でバイアスを考慮する必要はない、との持論を持っているが、なかなか理解が得られない。定性とはいえ、調査(リサーチ)である限りは調査主体は調査対象を「自然状態」において観察、質問すべきであるとの原則は認める。この考え方は、今の若者には想像すらできないだろうが、「対象者が生活している現場に出かけて質問してくる」いわゆる「訪問面接調査」という方法論に行き着いた。(新しい手法と思われるホームビジットは実は古臭い方法論なのである)生活の現場で生活(消費)について質問するのだから自然状態での反応(回答)が得られると考えた。

ところが、状況はインターネットの普及で大きく変化した。現場に出かける手間ヒマ、費用を考えれば、そこから離れてもデータは収集できるし、何よりもスピードと費用の安さが革命的だったので、原理原則は脇に追いやってネットリサーチに雪崩れた。繰り返しスピーディにリサーチができるのでリサーチが盛んになった利点の一方で、精度は問題にされることもなくなった。粗製とは言わないが乱造されるリサーチが価値を下げたのではないかと疑っている。結果、ネットリサーチ各社が価格競争に終始し、自らの首を締める状況が続いている。これでは若いリサーチャーは育ちようがない。

一方の定性調査にはこのような革命は起きていない。というより、定性調査は手法としてすでに革命を体験していたといえる。インタビュー調査は調査主体が現場に出かけることはなく(一部の1on1ではあるが)対象にとってはアウェイな環境に呼び出して質問するという形式をとった。呼び集める対象者は有意な条件をつけられので代表性とか母集団という考えは入り込めない。バイアスをかけまくった結果FGIが成立している。

バイアスをかけてしまうのなら、徹底的にバイアスをかけたインタビューにしてみてはどうだろうか。バイアスの最高地点は対象者の立場を捨てて調査者側の人になってもらってインタビューを受けてもらうことである。調査主体と調査される客体としての対象者という区別をゼロとは言えないがなくしてしまおう。これを協働インタビューとして試みていきたい。時々、現れる「消費者(女子高生)と一緒に商品開発」のような協働(共創)とは違う、定性調査の方法論として確立したい。

とりあえず、10月18日の「第6回アウラ・コキリコセミナー」でトライする。

 

ディベートインタビューの試み

第5回アウラコキリコセミナーでディベートインタビューを試験的におこなった。はっきりした定義はないが、FGIのある場面で、ディベート形式の討論を対象者にやってもらうことをディベートインタビューとした。その目的は、単なるユーザーという立場を越えて当該ブランドの良さを語ってもらうことで「新しい気づき」や「自分の嗜好の論理的な理解・納得」が得られるのでは、ということである。ディベートだから反対派(アンチ)の立場に立っての立論を無理にでも立てるので、一層、理解・納得が深まると想定できる。

実際のディベートインタビューでは、対象者にディベートのルールを理解してもらうことが難しかった。日本人はディベート慣れしていないこともあって、論破や勝ちにこだわって反論やそれに対する新たな立論が感情的になってしまう。あるいは、最初の立論そのものが難しいなど、いくつか問題点はあったが、リクルーティング段階で「ディベートやってもらいます」との情報を与え、ルールを理解してきてもらえばスムースに行きそうである。

ディベートは一種のゲームであるから、ゲーミフィケーションの視点で再考してみたい。(そういえば、ゲーミフィケーションは今や死語?)

カスタマージャーニーからユーザージャーニーへ

カスタマージャーニー(マップ)を描く目的は、

①隠れた(意識していない)タッチポイントの発見

②タッチポイントごとの接触情報と接触媒体の特定

③タッチポイントでの態度変容

④購入に至る意欲の高まりの軌跡

だと思う。

AIDMAが1本の直線で描かれる消費行動プロセスに対して複線的に描く。

何となくニューラルネットワークに似ている(全然違う!)気がする。

商品・サービスの購入プロセス分析、ブランディング分析に使える。

カスタマージャーニーからユーザージャーニーへの発展を考えている。

購入から使用(消費)までにタイムラグがあるモノは使う場面を刺激することで

次の購入が促され、ジャンル全体の消費量(売上)が伸びる。

購入者(カスタマー)が使用者(ユーザー)になるプロセスのジャーニーマップを

描くことはマーケティング上有効であろう。

家電製品やAV機器などには不向きな分析だが、リピート購入が重要な最寄り品に

有効であろう。

方法論は、カスタマージャーニーと同じでよいのか。

タッチポイントの抽出は使用者の無意識の領域に踏み込む必要があるかも知れない。

ニューロマーケティングはとっくに終わっている

第30弾は「自由意志錯覚」これを初めて知った時は結構なショックを受けた。大げさに言うとアイデンティティの危機。リベットの実験で有名だが、ヒトが何かをしようと思う前から脳は準備電位といって活動を始めている。意志が先にあって、その意志に従って必要な脳活動が始まると考えたいが、脳活動が先でその後に「しよう」という意志が現れる。「自由意志は幻想」にすぎない。何か腑に落ちないが、池谷先生は「無からは何も生まれない」とし、「しよう」という意志が生まれる前をたどっていけば、何らかの(脳)活動が必要になる、のだから当然のことであると解説している。そして「ヒトという生き物は、自分のことを自分では決して知りえない作りになっているようです」と結論している。『ココロの盲点』の掉尾をかざる哲学的なご託宣である。

MRの現場でこの自由意志問題が関わるようなことはまずない。無理やりつなげれば、ニューロマーケティングと言われる分野で、コトバや行動で「回答」させるの従来の方法ではなく、脳活動を測定することでバイアスのないリサーチができるとのアプローチである。消費者のブランド決定時の意志のありようや広告や商品の評価をコトバを介することなく直接、脳活動の測定で行なおうとの考え方である。この考え方は原理的に不可能と考えてよさそうでさる。

カラダはウソがつけない

第29弾「自己知覚」 ある感情があって、それに見合った表情や姿勢が表現形として出てくる。楽しい時は笑顔が、ガッカリした時は肩を落とした姿勢が、ということ。ところが、逆の回路があって、表情や姿勢からある感情が湧き上がることがある。無理に笑顔を作っても楽しい感情が湧いてくるし、ガッツポーズをとることで気分が高揚してくる。我々の感情や情緒は「ココロではなくカラダ由来」だったりする。楽しいから笑うし、笑うことから楽しい気持ちが湧いてくる。この感情を導き出す力は表情より姿勢(体)の方が強い。能が面(おもて)は無表情にして、舞で表現するのも、この顔(表情)よりカラダの自己知覚の方が強いことを知っていたかのかも知れない。顔はウソをつけるがカラダはウソをつけない。

MRの現場、FGIの現場ではボディランゲージが大切と云われることがあるが、2時間椅子に固定されていては言うほどのボディランゲージは観察できない。ワークショップでアイスブレイクにコトバのやりとりだけよりもカラダを動かさせた方が、アイスブレイクできたか、凍ったままののかの判断は確かにつきやすい。表情は崩れていてもカラダが固まったままでは緊張が解けたとはいえない。我々が提案しているインタビューの途中でカラダの動きを強制的にいれる「アクティブインタビュー」もこの知見に従っていそうだ。

ココロの開放はまず、カラダの開放から。